ちがさき丸ごと博物館

柳島村

名称 柳島村 別名
所在地 柳島1・2丁目・浜見平・柳島海岸・柳島
概要 柳島村は相模川河口の東側にあり、現在の柳島1・2丁目、浜見平、柳島海岸、柳島の範囲です。昔、地元では柳島1・2丁目を本村、柳島海岸を河岸(かし)または浜前と呼んでいました。『新編相模国風土記稿』(以下風土記稿)には、千ノ川(松尾川)が村の東から南へ流れ、西には相模川と古相模川の2つの流れがあり、南は海と記されていることから、島のような地形であったことが想像されます。また「水田の用水も海潮を引きて耕植(こうしょく)を助け、水溢(すいいつ)の患(うれい)ももとより多し」ともあります。
村では、水害の対策として堤防を築きました。このことも風土記稿に「堤防は古相模川に沿っている。長さ四百四十六間(約800m)、高さ九尺(約3m)」とあります。この名残は、鎮守の八幡宮の北側から西側に一段高くなって、現在も見られます。また、風土記稿には柳島湊(みなと)のことが記されています。400石積みの船が3艘、それより小さい船が4艘あって、近くの村の米や麦をこの湊から出したとあります。柳島湊は、寛文年間(1661〜73)のころは「須賀柳島合湊」としていましたが、相模川の流路が柳島村側に移ったことから、村は廻船業務の拡大を幕府に願い出ました。ところが、須賀村からそれは困るという意見が出て、湊の運営権をめぐる両村の争いとなりました。そして元禄4年(1691)、幕府の裁定で須賀村と同等の権利が柳島村の湊にも認められました。相模川を下ってきた物資はここで廻船に積み替え、海路で各地へ運び、また海路で集まった物資は川舟に積み替えて、相模川をさかのぼりました。江戸時代を通して湊は栄えました。柳島にはエンコロ節という民謡が伝わっています。船乗りたちが、出船・入船の際に海路の無事を祈って歌ったものと伝えています。今でも結婚式や建前(上棟式)などの祝の席で歌われています。昭和51年に市の重要文化財に指定され、また、「かながわのうた50選」にも選ばれました。毎年秋に行われる市の郷土芸能大会で聞くことができます。柳島湊で廻船業を営んでいた藤間家は今に続いています。この家に生まれた善五郎(1801〜83)は、江戸末期に村の名主を務め、また柳庵と号し、書家、分筆家として知られています。昭和55年に「かながわの百人」に選ばれました。矢幡宮の境内には記念碑があり、墓は善福寺にあります。柳島記念館の東側、国道134号線沿いの砂浜に「砲術場並柳島湊跡之碑」、「湘南道路之碑」、「善行者の碑」などが建っています。また、江戸時代の絵図には、現在の柳島海岸に「百町終」と、一方、片瀬川(藤沢市)近くに「百町起本」と記されたものがあります。享保13年(1728)、幕府はこの間の海岸に大筒(大砲)の操作や射撃の訓練を行う鉄砲場を設けました。記念碑の碑文がこれらを伝えています。長い間水に苦しんだ柳島でしたが、風土記稿には「眺望佳景(けいけい)多し、富士、箱根、大山近くそびえ、南海は渺茫(びょうぼう)として天につられなり」とあります。近在に並ぶ所のないほど、景色が素晴らしかったのでしょう。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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