ちがさき丸ごと博物館

矢畑村

名称 矢畑村 別名
所在地 矢畑
概要 矢畑は本市のほぼ中央に位置しています。矢畑の地名が最初に見られるのは、室町時代半ば、文明2年(1470)の年号を持つ熊野那智大社に関係する文書です。この中に「やはた五郎四郎」とあります。その後は「谷畑」、「矢端」などと表記されますが、天正20年(1592)の名寄帳に今使われている「矢畑」の文字が出てきます。江戸時代の古文書類から村内に60近い地名が拾われています。その中の「十三貫目」、「前岡町」、「乾町(いぬいちょう)」は今も旧家の屋号として、「町」を抜かしてそう呼ばれている家があります。また、金ヶ谷(かねかいと・かねかやと)、ひしかいと、なかをかいと、めうわうかいと、ゆきかいと、めうかいとなどと「かいと」と付く地名があります。これらのなかには、今も使われないものもありますが、「かいと」は日本各地に見られる古い地名で、鎌倉・室町時代までさかのぼるといわれています。なぜ矢畑村に多く残っていたのか郷土史上の問題点です。明治時代に村内は千ノ川上、千ノ川下、勝沼、金山、明王ヶ谷(みょうおうがやつ)、鐘ヶ谷(かねがやと)、登象(のぼりぞう)、貸屋敷、肥地力(ひじりき)、円蔵前の10の小字に分割されました。また、明治9年(1876)につくられた町地図が残っています。それで見ると村全体が平たんで、宅地を中心に田んぼや畑が広がって、人々は農業で暮らしていたことが分かります。東は千ノ川を挟んで茅ヶ崎村、東と西は浜之郷村、北は円蔵村に接していました。村のほぼ中央の明王ヶ谷に鎮守の本社宮があります。この神社について「皇国地誌」には次のように説明してあります。昔、東国の反乱を鎮めるため源頼義がこの地を通りかかり、京都の石清水八幡を矢畑の本社丘に祭った(本社丘は茅ヶ崎保健福祉事務所の西約150mにあります)。後に頼義の子、義家がこれを浜之郷村に移し鶴嶺八幡社とした。このことから地元では、地名としての「やはた」は神社の「矢幡」と関係があるのではないかといわれています。また、神社の境内の説明板に、八幡社が浜之郷に移った跡には神社が祭られていたが、この神社は天保のころ(1830〜43)に現在の社地の南隣に移り、さらに昭和2年(1927)に現在の場所に移ったと記されています。境内には3基の道祖神をはじめ馬頭観音、鯛を抱いた恵比寿、蛇がとぐろを巻いた姿の宇賀神や市指定文化財の庚申塔などが祭られています。これらは元は村内の別の場所にあったものですが、道路整備などでここに集められたものです。神社の南隣は古義(こぎ)真言宗の長善寺です。その約100m南には御岳堂(みたけどう)と呼ばれるお堂があり、鬼子母神が祭られています。「御岳大明神」のお札を刷る版木もあるそうです。このお堂では毎月8日に講中の人たちがお題目を唱えています。御岳堂の東側の一面を「蔵屋敷」と呼びます。江戸時代の「新編相模国風土記稿」には、「今はたいてい陸田(りくでん)あるいは竹やぶとなる。およそ二反(約2000?)ばかり、まわりに堀を築く。巾二間(約3m60?)。中原御殿ありしころの御蔵ならんといい伝う」と書かれています。中原御殿とは江戸時代初期、徳川家康が鷹狩りの折などに使った屋敷で、平塚にありました。蔵屋敷の蔵には、江戸に送る年貢米を一時置いたと伝えています。堀の一画には弁才天が祭られていました。今、神社にある蛇身の宇賀神はここにあったものかもしれません。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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