ちがさき丸ごと博物館

弥生時代(沖積低地)

名称 弥生時代(沖積低地) 別名
所在地
概要 市内南西部一帯には、相模川と小出川の影響を受けて形造られた、沖積低地が広がっています。西久保の変電所辺りから鶴が台団地北側、高田の東側を通り、南は千ノ川を境にして相模川までの範囲が、この地形に当たります。かつてこの一帯をえぐるように流れていた相模川が、西側に流れを変えていくうちに、土砂を周囲にたい積してできた土地だと考えられています。ここは、低湿地と、少し高まりを持つ地形が交互に見られます。このうち、少し高まりを持つ地形は、自然堤防とも呼ばれます。東から順に円蔵、西久保、矢畑、浜之郷、下町屋と小出川を挟んで西側の萩園がこれに当たります。台地(丘陵)と砂丘の後に出来上がったこれらの沖積低地は、河川の影響を受けているため、粘質土層、細かい砂質土地層、砂利層が基盤層になっています。県道45号添いにある、西久保の変電所あたりの上ノ町遺跡と大屋敷B遺跡では、弥生時代後期の土器が出土しました。また、病院建設に伴う大町B遺跡の調査では、粘土層から弥生時代後期1800年前)の土器や木材が発見されました。これらは、この地域の最古の遺物と考えられます。市内南西部に位置する沖積低地では、約1800年前に人間の活動が始まったことが分かりました。また、弥生時代終末から古墳時代初めごろ(1700百年ほど前)の竪穴(たてあな)住居跡が、大屋敷B遺跡とJR相模線東側の小井戸遺跡(円蔵)で合わせて数件発見されました。開拓者たちが、小規模に分散して営み始めていたことを知ることができます。これらの竪穴住居跡は、共通して粘り気の強い土に埋もれていました。この土は、水に漬かって細くなった粘質土であり、川のはんらんなどにより、短期間に住居を埋め尽くしたと考えられます。これら西久保と円蔵の遺跡調査の結果、この地域最古の開拓者のムラは、営みを始めて間もないころ、相模川のはんらんでほぼ壊滅したと推定されます。そして、それまでの人間活動の痕跡(こんせき)も、流失したり、土砂に埋まったりしてしまったと考えることができます。この地域に再びムラが営まれたのは、古墳時代後期(1300年前ころ)のことです。300年〜400年の時間がかかったと考えられます。
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