ちがさき丸ごと博物館

純水館

名称 純水館 別名
所在地 新栄町
概要 当地初の大規模工場、製紙場。
当地の養蚕業は、江戸末期から資料が残るものの最盛期は、明治末年頃です。
長野県小諸の純水館主小山久左衛門の一族が、南湖院に入院した際に当地の繭と良質な水に注目し、町長らの協力を得て大正6年(1917)2月に茅ヶ崎駅と東海道(現国道一号)の間に(現ヤマダ電器付近)純水館茅ヶ崎製紙場の操業を開始しました。
館主の義弟小山房全が経営にあたり、工女は230名を数え、休日には停車場通り(現エメロード)が工女で賑わったといいます。
大正12年(1923年)9月の関東大震災の被害の後は経営が振るわず昭和12年(1937)に廃業しました。
養蚕農家は養蚕組合を組織して、当地で取れる約2万貫の繭の半分を特約取引によって純水館に販売しました。
房全は茅ヶ崎商興会、茅ヶ崎信用組合の設立に関与しました。
大正12年7月には皇太子(後の昭和天皇)の成婚に際し生糸の献上製紙場の一つに選ばれました。[ちがさき丸ごとふるさと発見博物館(2016年8月24日 平山)]神奈川県北部は、古くから生糸の原料となる繭の生産が盛んであったが、明治以降は茅ヶ崎地域でも養蚕業が発達した。
大正中期、それまでこれといった工場のなかった茅ヶ崎に、大工場が誕生することになった。小山房全(こやまふさもち)(1882-1935)が経営する有力製糸工場、茅ヶ崎純水館である。神奈川県を代表する工場として、全国的に有名であった。
長野県小諸町の大製糸工場、純水館の経営者小山久左衛門の娘婿となり、養父を助けて純水館の経営にあたった。茅ヶ崎市名誉市民で洋画家の小山敬三は義弟にあたる。この頃小山家では、房全をはじめ家族が茅ケ崎の南湖院に入院療養しており、茅ヶ崎の海岸に別荘も所有していた。その関係から茅ヶ崎周辺の養蚕業に注目して、1914(大正3)年に純水館の繭購入所を茅ヶ崎駅前に設置した。さらに小山家は茅ヶ崎町への工場進出を計画し、当時の町長伊藤里之助などの斡旋もあって、1916年に茅ヶ崎駅と東海道の間の敷地
12000坪を購入した。茅ヶ崎純水館は翌17年に竣工、最新式の器械を備え、女工数200名を超す大工場が誕生した。
茅ヶ崎純水館は、折からの第一次大戦期の好況下でアメリカの視察団から生糸の品質は世界一であると絶賛されるなど順調に発展していった。最新の設備への更新に努め、品質向上のために女工の労働条件や教育に配慮するなど、茅ヶ崎純水館構内で開かれた盆踊り大会には多くの町民も参加し、地元との交流が深められていった。ところが、1923年の関東大震災で工場が全壊し、大きな打撃を受けることになった。翌年から事業を再開したが、
その後の慢性的不況と世界大恐慌による生糸市場不振の中で損失を重ね、茅ヶ崎純水館はかっての隆盛を取り戻すことは出来ず、そうした中で1935年(昭和10)、房全はついに病に倒れて死去、茅ヶ崎純水館も翌々年の37年に廃業に至った。小山房全と純水館は地元茅ヶ崎に、駅前商店街の発展などに大きな足跡を残した。
[茅ヶ崎市史ブックレット⑨ 近代茅ヶ崎の群像   茅ヶ崎市史ブックレット② ちがさき歴史の散歩道   ]
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