ちがさき丸ごと博物館

姥島(えぼし岩)

名称 姥島(えぼし岩) 別名 烏帽子岩
所在地 茅ヶ崎海岸から1.6km海上の岩礁
概要 市内で最も古い地質/姥が島また烏帽子岩、尾根島とも唱う。中央より西南南海岸を距て十八町五十間にして、本群茅ヶ崎村との界なる海面に突起し、両村に属す。 もっとも高き元根、また形をもって筆岩とも呼ぶ。7尺5寸あり。その西北北に属するを鴎島、西北にあるを鯖島、東に接するを大平と唱う。東北東より東北隅にやのむね、鶏冠島、二場島、市場島の四岩連接せり。概して(おおむね)周囲およそ一里、面積2522坪とす。海草を摘み漁貝を漁するに便なり。また西に東あかね・西あかねの二小島あり。東南に西赤根・東赤根・目作根・大塚根・大根の五小島散在して波間に出没す。さきに尾根神社この島にありしがしばしば暴風に破壊するをもって、元禄年間(1688〜1704)本村字ツト田に移す。今の姥母神社これなり。(『皇国地誌草稿』 明治12年 小和田村菱沼村) かつて近衛なにがしという京都の位ある公卿が、東海道を東に下って、菱沼は今の茶屋付近、粟牡丹餅茶屋にしばしの休憩の折、はるか南に望見される姥島を見て、茶屋の婆やに、「あの島は何というどこの島なのか。」とたずねた。婆やは、「あの島は姥島といい小和田のものにございます。」とこたえた。そこで公卿はこれを聞いて矢立をとりすらすらと、 相模なる小和田の浦の姥島は 誰をまつやらひとり寝をする と和歌を詠んだという。そしてこの短冊はこの茶屋に残り、さらに本宿某家に伝わり、やがて藤沢遊行寺に預けられたといわれるが、真偽の程は明かでない。これにまつわる伝承がある。すなわちこのころ、伊豆の漁師たちは盛んに漁区の拡張をはかり、陸より一里以上離れた島は伊豆のものであると宣言して、姥島の伊豆領なりと小和田村に談判におよんだ。これを聞いて村人たちは、名主以下組頭百姓惣代一堂に会して、種々その対抗策をこうじたが、なかなか名案も生まれず思案にくれてしまった。そのとき名主九右衛門、ふとこの和歌が短冊に書き留められて粟牡丹餅茶屋にあることを思いおこし、早速これを証拠として姥島は小和田の領分であることを主張することができたという。伊豆側も高貴な公卿の書かれた短冊を見て、もはや強硬な主張もならず引きさがり、小和田の漁師たちも改めて生活権の確立ができたというわけである。(水嶋善太郎 『小和田郷土物語』 昭和36年) 柳島の藤間幸良さんの家を、昔シバキリ徳右衛門と呼んだ。この徳右衛門さんが切り開いた土地に、白壁造りの大きな土蔵を建てた。はるか大島から一望すると、天気の良い日には、この柳島の白い大きな蔵がよく見えた。大島にすむある娘が、あんな大きな蔵のある家にぜひ嫁入りしたいとの願がかない、徳右衛門さんのところに嫁いできた。その時の持参金に持ってきたのが、あの姥島だという話である。藤間家から出られた子孫の永野キタさん(明治35年生)の話によると、「子供の頃、おじいさんからこの話はよく聞かされました。長さ30センチ位の朱塗りの箱に立派な房のついた証文入れがあり、この中に姥島の証文が入っているのだといわれました。明治の末か大正の初めに、新町の大きな商店に奉公していた親戚の人が、珍しい物だからみんなに見せてやりたいといって借りていかれ、それっきりになってしまった。惜しい事ですよ。」と言っておられた。永野ソヨさん(明治21年生)も藤間家の方で、ソヨさんの父親の長次郎さんが17才の時まで、暮れになると姥島にお正月のしめ縄を張りにいっていたそうだが、ある年(明治10年頃)悪い風邪が流行し、皆寝込んでしまって行かれなくなり、それ以来やめてしまいそれからは南湖のものになってしまったということである。[青木チヨ 「姥島の伝承」『柳島の移り変わり』 昭和54年) ]
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