ちがさき丸ごと博物館

鉄砲道

名称 鉄砲道 別名
所在地 南湖〜学園通り・藤沢市から茅ケ崎市柳島
概要 享保13年(1728年)、江戸幕府は大筒の演習場として、片瀬村(藤沢市)から柳島村までの海岸一帯に鉄砲場を設置しました。市では、「みちの愛称」として柳島から松下政経塾前までの道を鉄砲道と呼んでいますが、本来は南湖の六道の辻から富士見町の平和学園付近まで、中海岸、東海岸、松ヶ丘、平和町を東西に貫く道を鉄砲道と呼んでいたようで、その道筋は鉄砲場に沿うものだったといわれています。なぜ鉄砲道の名が付いたかということについては諸説があり、はっきりしません。また、その始点は柳島からという説もあります。柳島湊から大筒を運び、演習する武士たちが往来した道だとか、鉄砲場のそばを通っているからだというものですが、この道で大筒を運んだという記録は幕府にも当地域にもありません。この鉄砲場が設置された享保13年から寛延元年(1748年)までの21年間は毎年、その後はほぼ隔年、18世紀後半からは数年おきに演習が行われ、明治維新近くまでの百数十年間存続しました。東海岸北5丁目の鉄砲道の旧道と、新しくなった鉄砲道の分岐点には、佐々木卯之助の記念碑が立っています。幕府の旗本であった佐々木卯之助は、天保のころ(19世紀前半)鉄砲場の管理責任者で、砲術の指導に当たる大筒役でした。南湖などの農民は、卯之助の了解のもとに鉄砲場内で耕作していましたが、幕府は卯之助が無断で耕作を許して面積を増やしていたと摘発し、天保6年(1835年)に卯之助を処罰し、伊豆国の離島、青ヶ島に流しました。そして卯之助は明治維新後もそのまま島にとどまり、82歳で亡くなりました。半農半漁の生活をしていた南湖では、鉄砲場内の耕作を卯之助の恩恵として感謝の気持ちを表し、明治31年(1898年)に、時の茅ヶ崎村長伊藤里之助が発起人となって、南湖中町の八雲神社境内に卯之助の記念碑を建てましたが、その後この記念碑は建立場所が転々とし、昭和56年(1981年)、現在地に移りました。昔、南湖の人々は、今の中海岸、東海岸の辺りに農地を持っていて、鉄砲道は南湖からそこに通うための大事な生活道路でした。大正初年(1912年)ころ、伊藤里之助茅ヶ崎町長は地域開発のためにこの道を整備して、今の鉄砲道の基礎をつくったといわれています。
現在は、柳島記念館に鉄砲場の複製図が展示してあります。鉄砲道と呼び伝える道筋は、異説もありますが、柳島河岸(浜見平団地の西南の隅)から旧南湖院の北側を通り、南湖下町の住吉神社から六道の辻を中海岸に抜けて、中海岸自治会館前を直進して東海岸から平和学園に至る道筋で、途中の海寄りに旧道が一部残っています。この道を「鉄砲道」と呼ぶいわれは、伊豆の韮山で造った鉄砲を柳島湊に荷揚げして、鉄砲場まで運んだからといわれていますが、このことを証拠だてる文献などは見つかっていません。鉄砲場の中をぬっていた道という意味で、そう呼ばれたと解する方がよいと思われます。
享保13年(1728年)、江戸幕府は大筒の演習場として、片瀬村(藤沢市)から柳島村までの海岸一帯に鉄砲場を設置しました。市では、「みちの愛称」として柳島から松下政経塾前までの道を鉄砲道と呼んでいますが、本来は南湖の六道の辻から富士見町の平和学園付近まで、中海岸、東海岸、松ヶ丘、平和町を東西に貫く道を鉄砲道と呼んでいたようで、その道筋は鉄砲場に沿うものだったといわれています。なぜ鉄砲道の名が付いたかということについては諸説があり、はっきりしません。また、その始点は柳島からという説もあります。柳島湊から大筒を運び、演習する武士たちが往来した道だとか、鉄砲場のそばを通っているからだというものですが、この道で大筒を運んだという記録は幕府にも当地域にもありません。この鉄砲場が設置された享保13年から寛延元年(1748年)までの21年間は毎年、その後はほぼ隔年、18世紀後半からは数年おきに演習が行われ、明治維新近くまでの百数十年間存続しました。東海岸北5丁目の鉄砲道の旧道と、新しくなった鉄砲道の分岐点には、佐々木卯之助の記念碑が立っています。幕府の旗本であった佐々木卯之助は、天保のころ(19世紀前半)鉄砲場の管理責任者で、砲術の指導に当たる大筒役でした。南湖などの農民は、卯之助の了解のもとに鉄砲場内で耕作していましたが、幕府は卯之助が無断で耕作を許して面積を増やしていたと摘発し、天保6年(1835年)に卯之助を処罰し、伊豆国の離島、青ヶ島に流しました。そして卯之助は明治維新後もそのまま島にとどまり、82歳で亡くなりました。半農半漁の生活をしていた南湖では、鉄砲場内の耕作を卯之助の恩恵として感謝の気持ちを表し、明治31年(1898年)に、時の茅ヶ崎村長伊藤里之助が発起人となって、南湖中町の八雲神社境内に卯之助の記念碑を建てましたが、その後この記念碑は建立場所が転々とし、昭和56年(1981年)、現在地に移りました。昔、南湖の人々は、今の中海岸、東海岸の辺りに農地を持っていて、鉄砲道は南湖からそこに通うための大事な生活道路でした。大正初年(1912年)ころ、伊藤里之助茅ヶ崎町長は地域開発のためにこの道を整備して、今の鉄砲道の基礎をつくったといわれています。

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