ちがさき丸ごと博物館

一里塚

名称 一里塚 別名
所在地 元町5890
概要 昭和36年8月15日、茅ヶ崎市史跡指定。東海道など、江戸時代の主要街道の脇に、一里(約4キロ)ごとの印として築いてある塚を「一里塚」といいます。国道1号の「茅ヶ崎駅前」交差点から東へ1つ目の信号の南側に、昔の面影を伝える一里塚が1基あります。
この塚は、江戸日本橋から数えて14番目のものです。東西の径は約8メートル、南北は約11メートル、高さ1.6メートルの大きさです。基の方は土が道沿いで削られ、土留めのために、自然石とコンクリートで囲ってあります。塚の上には松やサツキが植えられて、一里塚と彫った石柱も立っています。昔は、これと同じような塚が国道1号を挟んで北側にもあり、2個の塚が並んでいたといいます。日本では古代における国界に標を一里塚の始まりとする説もあります。戦国時代に織田信長や豊臣秀吉によって、部分的に造築されたこともありますが、きちんと整備されたのは江戸時代になってからです。徳川家康は次の将軍となる秀忠に命じて、慶長9年(1604)江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道にエノキを植えた一里塚を築かせ、全国に普及させました。エノキを一里塚に採用したのは、エノキは根が深く広がって塚を固め、塚が崩れにくいことにあったようです。寛延4年(1751)に書かれた『東海道巡覧記』という記録に、茅ヶ崎の一里塚が載っています。それには、東に向いて右の塚には松、左の塚にはエノキがあって、右の遠方に姥島(うばじま)が見えるとあります。また、文化3年(1806)の『東海道分間延絵図』にも、東海道を挟んで2つの塚が描かれており、付近はいくつかの池があるばかりの寂しげな所です。人家は、東は本村の八王子神社のそば、西は十間坂の第六天神社のそばにしかありませんでした。明治以後、鉄道の発達とともに一里塚の必要性も次第に失われ、昔の東海道をたどってみても、今はごくわずかしか残っていないといいます。元町のものは貴重な文化財の1つといえます。

[種別]塚
[立地]
[範囲]
[分布状況]
[現況]
[備考]
[遺構]
[遺物]
[保管場所・責任者]
[時代]江戸時代[ちがさき丸ごと博物館ガイドブック(文化財編)  ぶらり散歩 郷土再発見  ]
イメージ