ちがさき丸ごと博物館

佐々木卯之助

名称 佐々木卯之助 別名
所在地 南湖
概要 茅ヶ崎の伝説・昔話
東海岸北5丁目の鉄砲道沿に、佐々木氏追悼記念碑が建っている。この碑は明治31年(1898)、当時の茅ヶ崎村長伊藤里之助によって南湖中町の八雲神社の境内に建てられ、その後2回場所を変え、現在の地に落ち着いたものです。 佐々木家は、享保十年(1725)に八代将軍吉宗に登用された旗本で、また、佐々木流砲術師範として、伝統を誇ってきた家柄であった。茅ヶ崎・小和田・辻堂一帯の海浜は、享保13年(1728)幕府の鉄砲場となり、そこに村民が入ることは禁じられました。広大な鉄砲場内を、演習期間以外は耕作しないでおくのはもったいないと、天明6年(1786)代官が村々へ新田開発を進めましたが、村々はこれに応じませんでした。その後、卯之助の父、伝左衛門が幕府に届けず、南湖の農民に鉄砲場内の新田開発を許可しました。 文政7年(1824)卯之助は大筒役となり、試作田もそのまま父より引継ぎ、卯之助の代になり試作田は広くなり、農民も大豆、大麦、小麦などを造り、利益を得るようになりました。
天保3年(1832)に実施された検地の折にこのことが発覚しました。伝左衛門が、新田開発を許可してから34年間、幕府へ報告されていなかったのです。この為、卯之助は幕府に無断で農民に耕作させ利益を得ていたという罪によって、青ヶ島へ遠島処分となりました。しかしその後南湖の農民は、佐々木家の計らいを、卯之助の情けある計らいとして深く感謝し、佐々木様と敬い、八雲神社の境内の碑に、正月や祭りなどには一番先にお供えをしたそうです。
明治9年(1876)青ヶ島にて82歳で一生を終えました。  本村の海前寺に、卯之助の供養碑が有ります。 
[茅ヶ崎ゆかりの人物誌(郷土史学習グループ一樹会編)]
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