ちがさき丸ごと博物館

地引き網

名称 地引き網 別名
所在地 茅ヶ崎海岸一帯
概要 海岸で地引網漁が行われだしたのは、江戸時代初めの慶長年間頃からといわれる。寛政10(1798)年の「小和田村明細帳」には、「村にある漁船は六艘であります。一艘につき103文の年貢を納めています。六艘の漁船によって春から秋にかけて、農業の合間を見ては地引網を行っています。鰯、ひしこ、をとっています。これは肥やしに使います」との趣旨が記されている。地引網による漁が、鰯、ひしこばかりでないのは勿論だが、それを肥料にすると書き立てるのは、よほど漁獲が多かったと考えられる。肥料にするには、いったん干鰯にするので、捕ったものを砂浜に干すために、そこには足の踏み場もないほど並べられた。明細帳には、田、畑作の肥やしに、下肥、灰、刈り草、干鰯を用いると記している。古老の話では、明治時代になっても地引網漁は盛んであって、麦刈りの農繁期と豊漁とが重なると人手が足りなくて、村で地引漁の手伝いをしないのは、駐在所のお巡りさんと寺の坊さんだけだったという。
現在も地引網漁は行われている。  (根)
柳島村 元禄16年(1703) ・小和田村 寛政10年(1798) 春から秋までの農事の合間に地引網をして、鰯・シコ・をとり干鰯(ほしか)としていた。
小和田に限らず、砂浜の続く柳島、南湖も漁法の中心は、地引網であった。
地引網は、豊漁の時は、朝どり、昼どり、夜どりと一日に3回も網を張ることがあったといわれる。
鰯・シコ・鯵・鯖などの沿岸の魚が獲れた。 (根)
[茅ヶ崎市史ブックレット② ちがさき歴史の散歩道 (根)  茅ヶ崎市史⑤ 概説編  (根) ]
イメージ