ちがさき丸ごと博物館

赤羽根村

名称 赤羽根村 別名
所在地 赤羽根
概要 新湘南バイパス側道の小和田小学校の北に当たる辺りに「六図」というバス停があります。変わった名前ですが、これは「六図」というこの付近の小字から取られたものです。赤羽根村では、明治時代の初期に村内を15に区分し、区分ごとにその中にある田、畑、宅地、山林などを1筆ずつ残らず描いた絵図と台帳をつくり、1筆ごとに1番から始まる通し番号を付けました。通し番号を地番といい、絵図のことを「字限図(あざきりず)」といいます。15枚の字限図が出来たわけですが、それぞれに「一図」、「二図」・・・「十五図」と名付けました。「六図」はそのなかの一つです。字限図は赤羽根村だけではなく、全国の村々につくられました。図の1枚ごとに付けられた名称を「字」、一般には「小字」といいます。すなわち「一図」、「三図」・・は小字ということになります。小字には字限図の中の代表的な地名を用いることが多かったのですが、赤羽根村のように機械的に付けることもありました。どのような理由から字限図つくられたのかといいますと、江戸時代には村は幕府や藩や旗本などに支配されていて、領主に対し米や金銀銭、そのほか租税を納めていました。ところが、その租税は各地まちまちだったため、全国の統一支配を目指した明治政府は租税を一律にする必要を迫られました。また、江戸時代の主な租税は、年貢として徴収した米などの現物だったので、国家の年間予算を立てるにはふさわしくなく、これを金納に切り替える必要もありました。このようなことから、明治6年(1873)に地租改正例を発表し、地価に見合った地租を個人に課すという方針を定めました。国民に課税を課すためには、だれが、どこに、どのような質の土地をどれくらい使っているかを把握しなければなりません。全国の村々で、土地の測量(丈量、じょうりょうという)と絵図、土地台帳の作成が進められました。明治7〜9年(1874〜6)ころのことです。市内でも村々の字限図はこのときにつくられ、その後の地籍図や公図の基になりました。赤羽根村は、北側に丘陵を背負い、丘陵のすそに沿って東西に細長く集落が開け、その南側には水田が広がっていました。村の南側に大山道(県道伊勢原・藤沢線)が通っています。この道沿いには、点々と俳句や短歌を刻んだ碑があります。冒頭に紹介したバス停「六図」の近くに、新湘南バイパス建設のために移転して出来た共同墓地があり、そのなかの7基の墓石に辞世と思われる句が彫ってあります。墓石なので法名と没年日があり、7基の内一番古い年号は文化7年(1810)、新しいものは嘉永2年(1849)です。一句紹介します。 土器(かわらけ)は土に戻って青葉山 これは天保11年(1840)没の春登(島村氏)の句です。この墓地の約200m西側の共同墓地にも、享和4年(1804)、文政10年(1827)、安政4年(1857)没年銘の3基の墓石に句があります。また、宝積寺の墓地にも江戸時代の歌人として知られる村野もと子(小沢氏)とその母白羊、兄飯哥などの墓石に歌や句があります。もと子は天保8年(1837)、白羊は文化10年(1813)、飯哥は文政13年(1830)の没年銘になっています。赤羽根村の範囲内だけでももっとあるのですが、全部は紹介しきれません。江戸時代も19世紀になると、当地の文化が豊かだったことを知ることができます。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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