ちがさき丸ごと博物館

稲作

名称 稲作 別名
所在地
概要 茅ヶ崎の水稲耕作について紹介します。昭和三十五年(一九六〇)に始まった経済高度成長は、日本の産業構造を根底から変え、本市でも、千年来続いてきた稲作中心の農業の姿が大きく変わりました。本市ができた昭和二十二年ごろに撮影された航空写真からは、東海道線や相模線、国道一号、湘南遊歩道路(現在の国道一三四号)、小出県道、国道一号沿いの工場群を除くと、幕末や明治維新のころとそれほど変わらない景観が見られます。田や畑に囲まれた昔ながらの景色が、その後の半世紀間の急激な宅地化で一変しました。昭和二十六年(一九五一、小出村の分村合併以前)の市の記録では、二九平方弱(一九三五町歩(ヘクタール)の市の総面積のうち、田が約四七〇町歩、畑が約九七〇町歩なので、七四%が田畑であったことが分かります。ここから、米一万三千石(一九五〇トン)、麦一万二千石(一八〇〇トン)、サツマイモ四二五トンの収穫がありました。自然を相手に豊かな収穫を得るためには、一年間の農作業の計画を綿密に練り、すべての作業の準備を整え、短期間で効率の良い共同作業を行う必要がありました。年間の農作業は、田植え・稲刈り、麦まき・麦刈りを中心に、イモ類や野菜を間に挟んで規則的に行われていました。ここに紹介する上の写真は、八十年前の関東大震災のころに撮影された小和田の農家の脱穀作業です。田んぼに干された稲束が、自宅の庭に並べられた千歯こきで脱穀されていますが、江戸時代に開発された千歯こきは、大正の終わりから昭和初年に足踏み式脱穀機が導入されるまで使用されていました。千歯こきは平らな板に先をとがらせた鉄を並べて打ち込み、先端に稲束を差し込んで、稲穂の部分のみを引き抜くもので、地面に置いたざるに実がたまる仕組みになっていました。写真には二台の千歯こきが写っていて、熟練の技で、リズミカルに作業を進めている様子がうかがえます。右の写真は、昭和六十二年ごろ、萩園の鶴嶺公民館北側の水田で行われた脱穀の様子です。背景には、建設中の新湘南バイパスが写っていて、家族総出で耕運機の動力を利用しながら脱穀作業をしていることがうかがえます。当地では、戦前は一反(約九九〇平方メートル)で米六俵(約三六〇キロ)収穫できれば優秀とされていたそうです。しかし、戦中から、耕地整理・改良などが熱心に行われ、かつては耕作するのに条件が悪かった耕地が、素晴らしい収穫をもたらす良い田んぼに一変しました。そして、反当たり六俵は、楽に収穫できるように変わりました。現在、宅地化の進行や産業構造の変化、後継者難、農作物の輸入の自由化など、さまざまな問題を抱えながら、二十一世紀の農業経営の確立を目指し、根気強い努力が続けられています。
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