ちがさき丸ごと博物館

今宿村

名称 今宿村 別名
所在地 今宿
概要 「宿」が付く地名は各地にあります。交通の要地にあたる宿泊地の意味に解され、古い宿を本宿、新しい宿を新宿、今宿などといいます。茅ヶ崎の今宿村の名が最初に見られるのは、信隆寺に残る江戸時代、寛永元年(1624)の鰐口(わにぐち)の銘文です。今宿村は宿場ではなかったのですが、東海道の街道筋で、村の東側から北上する通称八王子道(市道0114線)の起点という交通の要地だったところから村の名がついたように思われます。『新編相模国風土記稿』(以下風土記)では家数32と、また明治12年(1879)の『皇国地誌』(以下地誌)には「隣の中島村の本宿に対して今宿と改称した。民家四十九」とあります。東は小出川に、西から南は現在はほとんど、うかがうことができませんが、風土記によると、古相模川という流れに囲まれていて村は中州状だったようです。村の境は複雑に入り組んでいました。北は萩園村、東は小出川の旧流を境に浜之郷村、下町屋村、松尾村飛び地に接し、西から南は中島村、またわずかながら平塚市の須賀村とも接していました。地誌によると、地味(ちみ)は中等で、稲、アワ、麦、豆、ダイコンの栽培に適するが、水利には不便で干害と相模川、小出川の洪水を恐れたといいます。今も残る地名の生花田(しょうがた)、大田島、上大田島、下ノ川、北ノ窪、上北ノ窪、小中島、北河原、向河原などに田、島、川、窪、河原などが付いていて、低地で河川敷の上に開けていた村だったことが分かります。洪水の恐れに加え、相模川渡船場の定助郷(じょうすけごう)の役があり、村人の生活は大変でした。古相模川について、風土記には次のように記されています。「一名筏川という。この川、村内にて長さ五十間ばかり(約90m)のところは、幅三十間(約54m)あり、さながら池のごとし。故に古池とも称す。東海道のかかる所、板橋を架す。長さ六間半(約12m)、今宿橋と呼ぶ」。この大池はイカダマとも呼ばれていました。昔、相模川を下ってきた筏をためていたからといわれています。今は大部分が暗きょになり、わずかに名残をとどめるだけです。地誌に「鎌倉時代の建久年間に相模川に初めて橋を架けた所はここで、江戸時代の享保3年(1718)の洪水の折、楠(くすのき)の旧橋杭が出て徳川家に納めた」とあります。現在、ここよりさらに東方の国道1号に架かる下町屋橋のそばに国指定史跡の旧相模川橋脚があり、これも建久年間の橋脚とされています。こちらは大正12年(1923)の関東大震災のときに出現したもので、杭の材質は桧(ひのき)とされていますが、すでに江戸時代から、この付近で出現する杭を鎌倉時代の橋のものとする考えがあったようです。八王子道沿いの小字、台の一画に、村の鎮守、松尾大神があります。江戸時代には山王社といわれていました。江戸時代には付近に小学校があり、それを台小学校といいました。東海道沿いに東から上国寺、仏国寺、信隆寺と、日蓮宗の寺が近接して並んでいました。仏国寺は明治の初期になくなりましたが、風土記によれば、この寺と信隆寺は甲州(山梨県)の武田氏の氏族が開いた先祖菩提のための氏寺でした。また、上国寺と信隆寺に伝わる日蓮坐像は、いずれも市指定の重要文化財です。信隆寺の北の共同墓地に室町時代半ばのものとみられている宝塔があります。墓地のある所を塔ノ後、墓地の横を塔ノ脇といいます。地名にもなるほどの石塔ですが、文字がなく、来歴は分かりません。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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