ちがさき丸ごと博物館

円蔵村

名称 円蔵村 別名
所在地 円蔵・円蔵1丁目・円蔵2丁目・鶴が台
概要 江戸時代の円蔵村の範囲は、ほぼ今の円蔵と円蔵1丁目・2丁目と鶴が台です。鶴が台中学校の北東の角に、大山道に抜ける小さな坂道があります。この道が昔の円蔵村と高田村との村境です。安政6年(1859)に描かれた円蔵村の絵図が残っています。絵図によると、この道は南下し、雇用促進団地の南側の道と交差して西に向かい、輪光寺の山門前まで達しています。人々は村のほぼ中央部の微高地であるこの道の両側に、固まって生活をしていた様子が絵図から読み取れます。絵図には家数は70戸あり、安政2年(1855)の「村高家数人別書上書」の家数と一致しています。円蔵村は、鎌倉時代以前から懐島郷の名前で呼ばれていました。懐島郷は、伊勢神宮の荘園だった大庭御厨の中にあり、懐島景義が本拠地とした所です。景義は源義朝に従って保元の乱(1156)に参加し、さらに治承4年(1180)の頼朝の伊豆での旗揚げにも参加した相模国武士団の中の有力者で、鎌倉幕府の創立のために尽力しました。円蔵には御屋敷という小字があり、景義の館があった所と言われています。江戸時代の「新編相模国風土記稿」には、堀や馬場の跡が残っている様子が述べられ、今も神明大神の後の畑の中に堀跡が見られます。懐島景義の子孫は、建暦3年(1213)の和田合戦で没落し、代わって二階堂氏がやってきました。二階堂氏はその後3代、72年間にわたって支配します。室町時代も半ばを過ぎると、相模国は小田原北条氏に支配されることになり、懐島郷はその家臣の領地となります。さらに天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた時、秀佳は「ふところ島三ヵ村」宛の禁制を発しました。3ヵ村とは円蔵、矢畑、浜之郷を指します。この3ヵ村は徳川氏の世になってからそれぞれ村として独立しますが、この禁制からすでに村のまとまりができていたことが読み取れます。家康は、天正19年(1591)に、円蔵村を旗本の横山、大田両氏に領地として与え、寛永2年(1625)には辻氏にも分与します。この3旗本との関係は明治維新まで続きます。大正10年(1921)には、茅ヶ崎駅〜寒川駅間を走る相模鉄道(現在のJR相模線)が開通しました。村の中央を南北に貫通するこの線路によって、村は東西に分離されています。茅ヶ崎では当初、駅は茅ヶ崎と香川でしたが、沿線の利用客の増加に伴い、昭和7年に円蔵(現在はない)、昭和13年に日東(現在の北茅ヶ崎駅)、昭和16年には香川台(現在はない)と次々と新設されました。絵図のメーン道路の突き当たりに輪光寺があり、山門を入ると左手に市重要文化財の庚申塔があります。庚申塔では市内最古の寛永17年(1640)の銘があり、三猿が浮き彫りにされた珍しい形をしています。さらに、西に250mくらいのところに、村の鎮守である神明大神があります。この社は懐島景義の館の鬼門除けとして創建されたものといわれています。境内の左奧には、「円蔵祭囃子の由来」と「円蔵神明大神宮」の碑があります。銘文には、円蔵祭囃子は、景義が家臣をいたわるために催した酒宴の際の楽人の太古から始まり、市指定無形文化財第1号とあります。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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