ちがさき丸ごと博物館

大岡越前守

名称 大岡越前守 別名 大岡 忠相(おおおか ただすけ)
所在地
概要 1677〜1751 (延宝5年〜宝暦元年) 江戸中期の幕臣。八代将軍徳川吉宗に抜擢されて江戸町奉行となり、越前守と称す。公正な裁判とすぐれた市政で知られた。 享保の改革を支え、名判官といわれた町奉行で、1万石の大名へ出世。
町火消制度の開始、小石川養生所や目安箱の創設をはじめ、商人の仲間・組合を公認するなど、享保の改革を実務で支えた。
後、武蔵野新田開発にもあたり、寺社奉行をへて48年三河国西大平藩一万石の大名となり、越前守に任ぜられた。
大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。
忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍・徳川家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。
8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現在では大岡越前として知られている。江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。「徳川天一坊」、「村井長庵」、「越後伝吉」、「畔倉重四郎」、「後藤半四郎」、「小間物屋彦兵衛」、「煙草屋喜八」、「縛られ地蔵」、「五貫裁き」、「三方一両損」などのエピソードがある。 
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