ちがさき丸ごと博物館

懐島景義

名称 懐島景義 別名 大庭景義
所在地 円蔵
概要 市内の円蔵、西久保、矢畑、浜之郷一帯は平安時代末から鎌倉時代初期に懐島郷と呼ばれていました。この懐島郷を所領としていた武士が懐島(大庭)景義です。景義は大庭御厨を創設した鎌倉権五郎景正のひ孫にあたり、また藤沢の大庭一帯を支配していた大庭景親の兄にあたります。景義は頼朝が鎌倉入りすると、すぐに作事奉行に任ぜられ、頼朝の邸宅をつくり、海岸近くにあった鶴岡八幡宮を現在地に移し、道路整備をするなど鎌倉の基盤作りに活躍しました。「鶴嶺八幡宮別当勝福寺縁起」には、建久2年(1191)、景義は浜之郷の鶴嶺八幡宮を再興し、大仏殿、三重塔を建てました。建久4年(1193)、景義はあらぬ疑いをかけられ出家し、鎌倉を追放され懐島の邸に帰ってきます。建久6年(1195)、頼朝が再び上洛することを聞き、お供を願い出て許されます。そして、その十余年後の承元4年(1210)4月、80余歳の生涯を閉じました。

大庭一族
平安時代の後半期、鎌倉権五郎景正は、相模川から今の藤沢市一帯を開墾して伊勢神宮に寄進し、その地は大庭御厨といわれました。景正の孫景忠はここを支配して大庭氏を名乗り、その長男の景能は御厨内の懐島(円蔵・西久保辺り)を本拠にし、弟の景親は大庭荘を継ぎました。治承4年(1180)、源頼朝の挙兵に際し、景能は源氏につき、景親は平家につきました。源氏が勝利したことにより、景親は固瀬川(片瀬川)のほとりで首をはねられました。一方景能は鎌倉幕府の御家人として重用され、懐島郷を支配し館を置きました。『新編相模国風土記稿』の円蔵村の項に、「神明社が二社ある。その内一社は景能の館跡にあり、屋敷の鎮守と伝える」とあります。現在の神明大神がそれに当たるといわれています。建久元年(1190)、頼朝は京に向かう際、この館で一泊したといいます。景能は、承元4年(1210)4月9日、懐島郷の館で没しました。
[茅ヶ崎ゆかりの人物誌   郷土史学習グループ 一樹会  ]
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