ちがさき丸ごと博物館

香川村

名称 香川村 別名
所在地 香川・香川1-7丁目
概要 香川村の名前の由来は、明治時代につくられた『皇国地誌』に、遠い昔、隣の下寺尾村にあったか海円院に咲く梅の花の香が、小出川の流れに乗って漂ってきたことによるとあります。また、香川のという地名は、早くから記録に現れます。藤沢市や茅ヶ崎市の一部は、平安時代後半期には伊勢神宮の神領である大庭御厨に含まれていた。当時の記録に「當御厨内字(とうみくりやないあざ)殿原、香川両郷」とあります。殿原はどこか分かりませんが、香川は市内の香川を指しています。時は移って鎌倉時代の初期、承久3年(1221)、後鳥羽上皇と北条義時が争った承久の変で、宇治川の合戦の折、鎌倉方で手柄を立てた武将として香河小五郎と香河三郎の名が上がっています。小五郎は2人、三郎は1人の敵を討ち取りました。三郎はその時16歳、相手は大の男で、組伏せられあわやというとき、武蔵太郎という者に助けられ相手を討ったと『承久記』に書かれています。両者ともこの地に住む武将でしたが、香川氏は宇治川のでの活躍によって、後に安芸(現在の広島県西部)に新しい所領を得て、移りました。更に時代は下がって、小田原北条氏のころに香川を支配していたのは、北条氏の家臣、吉田又三郎でした。北条氏は天正18年(1590)に滅びます。秀佳から関東の支配を命ぜられた徳川家康は、翌19年(1591)、旗本の本間忠三郎に香川村300石の知行を与えています。また、香川村には芹沢村の飛地があって、飛地は戸田氏が治めました。それから明治維新までの280年近く、香川村は本間、戸田の両家の領地でした。鎮守は諏訪神社で、『皇国地誌』に、天正17年(1589)信濃(現在の長野県)の諏訪大社を勧請したとあります。信濃の諏訪大社に上社と下社があるように、香川にも字篠谷(しのたに)に上諏訪神社、字東に下諏訪神社がありました。上社の跡地には昭和10年に建てられた神社旧跡の記念碑があり、それには明治8年(1875)に上社を下社に合祀(ごうし)したとあります。この時、下社の地に今の神社が生まれました。村の中央に近い字東に香川山玄珊寺(げんさんじ、曹洞宗)があります。『新編相模国風土記稿』には「領主の本間氏が、先祖の季忠の例を弔うために建てた」とあります。玄珊寺の寺号も、季忠の法名の「金剛院樹心玄珊」に基づいています。香川自治会で発行した『香川の歩み』には、季忠は天正12年(1584)4月、小牧長久手の戦いで戦死した。玄珊寺が西を向いているのは、はるか長久手を望んでいるからと伝えるとあります。香川駅近くに熊沢山浄心寺(日蓮宗)があります。甲州(現在の山梨県)の武田氏に仕えていた熊沢隼人が当地に移り、文禄4年(1595)に開いたと伝えられています。隼人はひたすらこの地を開拓し、浄心庵を建て菩提所と定めたそうです。寺の入口左手には、三橋勘重郎の供養塔があります。勘重郎は、水不足に悩む香川村のために、駒寄川から篠谷を通って南に流れる灌漑用水を引いたといわれていて、この勘重郎堀の一部が今も玄珊寺の西側に残っています。勘重郎について『香川の歩み』には、次のように記されています。寛政年間(1789〜1801)の人で、香川村の名主だった。飢饉が続くなかで、領主の過酷な年貢要求に反抗したために処刑されたので、感謝した村人はその霊を慰めるために供養塔を建てたと。しかし、彼の事跡を証拠付ける記録はなく、口伝えのみによって知ることができるともあるので、今後の研究が待たれます。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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