ちがさき丸ごと博物館

兜塚

名称 兜塚 別名
所在地 下寺尾東方1852
概要 県道藤沢・寒川線から、西に向かって右に下れば行谷村、左に折れれば北陽中学校・下寺尾におりる分岐点がある。その県道のそばの畑の中に高さ1〜2米の土盛りがある。実はその畑は私の畑で、塚は昔から兜塚と呼ばれるものだった。今から400年の昔、戦国乱世の世の中のことである。甲州の武田、相州の北条と相和せず、ついに永禄12年(1569)武田信玄は大軍をもって侵入して来た。各所で激戦あってその戦火は当地にまでおよんだ。この戦いの時、寒川神社焼失の古伝もある。寒川町菅谷原に点在する大小の塚は、この戦死者を埋葬したものと聞いている(十三塚)。さて、私の畑の兜塚は、やはりこの時の両軍の戦死者の鎧兜を集めて埋めたものという。いつの時代からか兜塚と称し、私の家では5月11日をもって戦死者の命日とし、供養し、その冥福を祈っている。かって、これは父から聞いた話であるが、父が50歳位の時、毎夜、白装束の甲冑武者が枕元に立つのを夢見たそうである。そこで父は、芹沢、腰掛神社の石腰神官に祈とうを頼み、塚上に石碑を建てた。なお、この塚地は国有地であったが、周囲が私の畑なので、昭和六年払い下げを申請し、今は私の所有地である。当時地価は坪当り1円であった。雑地で19坪ある。
大きさは、円形・径5m・高3m 。 戦国時代、武田勢と北条勢が激戦した際の両軍戦死者の鎧兜をまとめて埋けたところといわれる。
[種別]塚
[立地]台地上平坦地
[範囲]径約8.5m 高さ2.0m
[分布状況]周囲が耕作されているため形態は、円柱形になっている。黒土を、盛り上げてあるが、盛り方は雑である。
[現況]畑地
[備考]
[遺構]塚
[遺物]
[保管場所・責任者]茅ヶ崎市文化財収蔵庫 茅ヶ崎市教育委員会教育長
[時代]

[(野中孝義 「行谷雑話」4 『資料館だより』31 昭和54年1月) 聞き取り [調査]昭和55年3月 茅ヶ崎市教育委員会分布調査 昭和57年11月2日巡回調査 樋田豊宏]
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