ちがさき丸ごと博物館

鎌倉街道

名称 鎌倉街道 別名
所在地 赤松・本宿・小和田・松林・本村・茅ヶ崎・十間坂・矢畑・浜之郷・下町屋・今宿・中島
概要 鎌倉街道とは、鎌倉幕府が開かれた後、鎌倉と各地を結んだ中世古道の総称です。京都・鎌倉間の京鎌倉往還、信濃・上野国(長野県・群馬県)から武蔵府中(府中市)を経て南下する上の道、常盤国(茨城県)や房総からの下の道などがあり、茅ヶ崎を通る京鎌倉往還は、そのなかでも中心的な街道でした。市内の道筋は、ほぼ国道1号に沿うようにして、おおかたその北側を東西に貫いています。郷土史の研究を続けた故山口金次は、沿道に鎌倉・南北朝・室町時代の供養塔である板碑が多く分布していることを指摘しています。鎌倉の極楽寺口を出た京鎌倉往還は、片瀬、辻堂を経て現在のJR辻堂駅の西側を北上し本市に入り、赤松町と本宿町の境をさらに北上して東小和田の交差点で国道1号を越え、その後西南に方向を変え、上正寺の裏を西に向かいます。上正寺は鎌倉時代からの歴史を伝える古い寺で、康永2年(1343年)の年号銘を持つ板碑が保存されています。そして、京鎌倉往還はさらに西に向かい、松林中学校の前、茅ヶ崎高校の裏をたどって海前寺や、本村の鎮守・八王子神社の裏を過ぎJR相模線を渡ります。八王子神社の西側には、御堂山墓地があります。かつてここから鎌倉時代の嘉元4年(1306年)の年号銘を持つ板碑が発見されました。板碑は破損していますが、見事な阿弥陀三尊の種字(阿弥陀を表す梵字)が刻まれ、丈は現状で76?、完全であれば90?を越すであろう立派なものです。そして街道はそのまま西に向かいますが、中央公園や市民文化会館、市役所の辺りは地形が変わってしまい、その跡をたどることはできません。また、この辺りから西に向かって道が3本に分かれます。そのなかの中央の道は、やがて矢畑の肥地力で本社塚という小高い塚に至ります。ここは、平安時代、源頼義が戦勝祈願のために京都の石清水八幡宮を勧請した場所で、後にこれを浜之郷に移したものが今の鶴嶺八幡社であるという伝説の地です。街道はさらに西に向かって、鶴嶺八幡社の参道を横切り、梅雲寺の横から国道1号を南に渡り、国史跡の旧相模川橋脚わきに出ます。この橋脚は、鎌倉時代の建久9年(1198年)、御家人の稲毛三郎重成が当時の相模川に架けた橋といわれ、橋完成の祝いに出席した源頼朝が、帰路落馬したとも伝えられています。 頼朝、政子夫人をはじめ、鎌倉時代の武将たちはこの鎌倉街道を何度も往復したと思われます。 そして街道はさらに西進し、中島の日枝神社と浄林寺のそばを通り、現在の国道1号にかかる馬入橋の辺りから大住郡に入ったと考えられています。
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