ちがさき丸ごと博物館

子どもの暮らし(男の子)

名称 子どもの暮らし(男の子) 別名
所在地
概要 子どもの一日の過ごし方は、茅ヶ崎でも地域や時代によって違います。大正時代中期から昭和初期の南湖の子ども(男の子)の一日を例に見てみましょう。多くの家が漁師をしていた南湖では、その家の子どもは、小学六年生になると、地引き網を引いてから学校に行きました。網を引く日は朝四時に起き、着物を着て、わら草履を履き浜に出ます。初めて網を引きに来た子どもは、六尺といわれる下帯をしっかり締めることを教わりました。おぼれそうになったとき、帯をつかんで素早く助けることができるからです。早く船を出すと良い漁場に優先的に網を下ろせるので、南湖に十四あった網元は、少しでも早く漁船を出そうと、手際よく準備を進めました。海岸に近づくと威勢のよい声が聞こえてきます。舟が網を下ろして戻ると、待っていた引き子(地引き網を引く人の呼び名)は、帯のような「はよ」と呼ばれる道具を腰に結びます。そして、はよに付いているひもの端の重りを、引き綱にからめて引きます。大人にまじって引くので、体の小さい子どもは引き綱の位置が腰より高くなり、足が浮き上がりがちになります。転ばないように、一歩一歩慎重にあとずさりしながら綱を引きます。網にかかった魚は、網の先端にある目の細かい袋に追い込まれます。この袋が浜に引き上げられるころには子どもは朝食を食べに家に帰って行きました。地引き網を引くと、代分け(漁の売り上げの配分)がありました。十七歳になると一人前の代分けとなりましたが、子どもは大人の半分だけでした。代分けは、漁が終わると網元の家で行われ、父親などが網元から子どもの分を受け取りました。これは家の収入となり、学用品の費用などにも使われます。子どもは、日ごろ小遣いなどはなく、祭りの時に二銭か三銭もらうだけでした。当時、三銭あれば菓子が随分たくさん買えました。朝食を済ませると学校に向かいます。茅ヶ崎小学校では集団登校をしていたので、この辺りの子どもは八雲神社(南湖四丁目)に集まりました。高等科(尋常小学校六年卒業後二年間)の生徒が先頭に立ち、下級生の面倒を見ながら通いました。家に帰ると、畑仕事の手伝いが待っています。今の東海岸北三・五丁目、東海岸南二丁目辺りに畑があって、南湖の人たちはこれを原と呼んでいました。夏は畑に野菜を作るので、「原に行ってナスを取ってこい」などと言われてもぎに行き、冬は麦踏みなどに行きました。秋には、掘ったサツマイモを竹箕に入れて荷車(大八車)で運びました。鉄砲道を通りましたが、砂を踏み固めただけなので、荷車の輪が砂にめりこむことがあり、子どもの力で引き上げるのは重くて大変でした。正月やお盆は、高等科の生徒も年下の子と遊ぶことがあります。八雲神社に集まって、かくれんぼや竹馬、輪回し、ビー玉など、大きい子がリーダーになって遊びました。けん玉や水鉄砲は竹を使い、自分たちで作りました。また、五月には将棋凧や四角凧を浜に行って揚げました。風呂がある家は少なく、近くの親戚の家の風呂を借りる人もいました。多くの人は風呂屋に行き、夏は行水で済ませたものです。夕飯を食べると、子どもは六時か七時までには床に就いていました。高等科を卒業すると男子は奉公に、女子は行儀見習いに行く人が多く、男子の場合は奉公が明けると満二十歳で徴兵検査を受け、兵役につくこともありました。魚屋へ奉公に出た人の中には、後にその腕前を料理店で生かした人もいるそうです。
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