ちがさき丸ごと博物館

小和田村

名称 小和田村 別名
所在地 小和田・赤松町・本宿町・代官町・小桜町・出口町・ひばりが丘・浜竹・松浪・美住町・旭が丘・常盤町・富士見町・平和町・松が丘・汐見台・緑が浜・浜須賀・菱沼海岸・松林一丁目
概要 江戸時代の小和田村は本市の東南部に位置し、小和田、赤松町、本宿町、代官町、小桜町、出口町、ひばりが丘、浜竹、松浪、美住町、旭が丘、常盤町、富士見町、平和町、松が丘、汐見台、緑が浜、浜須賀、菱沼海岸、松林1丁目と住居表示された範囲にほぼ重なります。村の範囲を明確に言い切ることができないのは、菱沼村との入り会いが多いためで、『新編相模国風土記稿』(以後『風土記稿』)には「地形菱沼村と犬牙して分かち難し」とあります。両村は犬の歯のように入り組んでいるという意味です。どのような理由からそうなったのは分かりませんが、大きく分けると大山道に近い辺りが菱沼村、東海道(国道1号)の両側から海までが小和田村だったようです。小和田村の鎮守の熊野神社の境内に祭られている姥神社と尾根明神社は、市内の他の村に見られない珍しい神霊です。拝殿の向かって右側の社に、石に彫刻された髪の長い姥神が祭ってあります。すでに寛政10年(1798)の村明細帳に「姥神宮」と記録されていて、明治時代に現在の場所に移されるまでは今の菱沼3丁目の辺り、字長町の一角にありました。子どもが風邪をひいたとき、お茶を添えて治してくれるよう祈ったといいます。風邪治しに効く女性神であれば、芹沢と今宿に「ギャーギ婆さん」とか「ギャーギャー婆さん」と呼ばれて祭られている神と同類のものと考えることができます。尾根明神は熊野神社拝殿の向かって左側の石碑のなかにその名があります。この神も、前述の寛政10年の古文書に「浜鎮守尾根大明神」と出ていて、天保12年(1841)の『風土記稿』には「祭神つまびらかならず」とあります。昔は出口町8の一画にあって、明治のころ現在の場所に移されました。明治12年(1879)版の『皇国地誌』には、元は姥島にあったが、風波で何度も壊されるので、元禄のころ(1688〜1703)「ツト田」(菱沼3丁目の辺り)に移したとありますが、この記事は姥島と混同しています。村内に祭られた社寺は『風土記稿』に、牛頭天皇社、山王社、広徳寺、千手院(ともに真言宗)、上正寺(浄土真宗)、阿弥陀堂と書かれています。また、『風土記稿』に「海浜に砲術場あり」とあります。これは鉄砲場ともいわれ、江戸幕府が鉄砲の演習をした場所です。その範囲は、現在は藤沢市の片瀬、鵠沼、辻堂の各村と、本市の小和田村から茅ヶ崎村の海岸砂丘にまたがる広いものでした。当時の鉄砲は、弾丸の重量によって、小筒、中筒、大筒、石火矢と分かれていました。鉄砲場で用いられたものは大筒でした。遠くを狙うのを「町打」、近くを狙うのを「角打」、舟から撃つのを「船打」、低いところを狙うのを「下ヶ矢(さげや)」といい、町打は片瀬村の引地川の右岸から柳島方面に向けて撃ちました。鉄砲場が設けられたのは、享保13年(1728)でした。『茅ヶ崎市史』には以後21年間は毎年、その後は隔年、江戸後期には不規則に演習が続けられ、明治になると鉄砲場に代わって、辻堂、小和田の海岸が横須賀海兵団の演習地となり、太平洋戦争までは頻繁な訓練が行われ、終戦後も米軍の演習が行われたとあります。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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