ちがさき丸ごと博物館

下町屋村

名称 下町屋村 別名
所在地 下町屋1-3丁目
概要 下町屋村は、東海道を西に向かい鳥井戸橋を渡ったあたりにあり、東は茅ヶ崎村、西は今宿村、南は松尾村、北は浜之郷村に接していました。東海道が村の中ほどを東西に通り、小出川が村の西側を北からほぼ南へ流れ下っていました。民家は東海道を西側に並び、その南側は水田、北側は畑、畑のさらに北側と小出川沿いは再び水田で、主要な産業は農業でした。村の鎮守について、『新編相模国風土記稿』には「山王社、神明宮、以上二社共に村の鎮守とす。柳島村善福寺持ち」とあります。神明社は神明神社と名を変え、今も国道1号沿いにあります。山王社は村の東寄りにあったのですが、今は神明神社に合祀(ごうし)されています。昔、神明神社のわきに井戸があり、平安時代の陰陽師、阿倍清明が彫ったと伝えられていましたが、国道の拡張工事でなくなりました。国道を西に向かい、小出川の手前を北に入ると浄土宗の町屋山大廣院梅雲寺があります。平塚市須賀の海宝寺の廣譽(こうよ)という僧が、慶長4年(1599)に開山したと伝えられています。境内に三宝荒神を祭る社があります。『新編相模国風土記稿』には、「難除荒神という。慈覚大師(平安時代初期の天台宗の僧)の作。大師が唐の国から帰るとき風波の災難にあい、三方荒神に祈願し助かったお礼に彫刻した」とあります。また、明治時代に書かれたと思われる記録には「像高八寸五分(約28?)の立像で、昔、下寺尾村にあった寺に祭られていたが、兵火のために行方不明になっていたものを、円蔵村の吉野という人がやぶを開墾したときに現れたので寺に祭った」とあります。今は秘仏とされていますが、江戸時代には、3度江戸まで出開帳したこともあるそうです。国道1号と小出川が交差する下町屋橋のあたりに、国の史跡に指定されている旧相模川橋脚が保存されています。源頼朝の家臣だった稲毛重成が、先になくなった妻の供養をするため、建久9年(1198)に相模川に架けた橋の橋脚と考えられています。
下町屋の地名が文字に現れる最古の記録は、室町時代の文明2年(1470)の熊野神社関係の文書です。それに「ふところしましものまちや…」とあります。地名の由来について、古老の話では「相模川の東岸にあたり、町屋があったからだ」といい、また、大正時代のころまで「清水屋」とか「はしもと屋」という茶屋があったそうです。東海道沿いに茶屋が並んでいたということから町屋と呼ばれるようになったのではないかと思われますが、はっきりしたことは分かりません。明治時代の記録には、生神場川(しょうじんばかわ)、赤池川、千ノ川が流れていると書かれています。生神場川は今は暗きょになったのか、ほとんど見ることができません。赤池川は小出川のことです。現在の小出川は下町屋の西岸を南に下り、下町屋橋の下手で東から来る千ノ川と合流し相模川河口を目指して直流しますが、関東大震災までは今の下町屋橋あたりから東南へ向かい、千ノ川と鳥井戸橋下で合流していました。関東大震災で相模川の河口あたりが隆起したこともあって川の流路が改修されたのです。江戸時代には村の戸数は約40軒でしたが、昭和30年あたりから急激に増えて周辺の様子も全く変わりました。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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