ちがさき丸ごと博物館

縄文時代

名称 縄文時代 別名
所在地
概要 昭和38年(1963)に下寺尾で調査された貝塚は、縄文時代前期(約6000年前)の「西方(にしかた)貝塚」として広く知られています。その調査で、1軒の竪穴住居跡が発見されました。今のところ本市で最も古い住居跡で、縄文時代前期の住居形態の研究に重要な役割を果たしてきました。小規模な貝塚ですが、縄文時代の社会や自然環境を示唆する、多くの興味深い資料を得ることができました。縄文時代前期の人々は、定住してムラを営むようになりました。飲料水が得られる谷戸に面した台地の平らな面が、縄文人に好まれたようです。台地の縁辺に竪穴住居を構え、中央に共有の広場を持つ構造が一般的となり、その後の縄文時代のムラの基本形となりました。広場には、集会場や祭祀(さいし)などに使用する建物が造られたと考えられ、食料貯蔵のための穴も規則的に掘られました。また、墓地もこの中に設けられていて、縄文人の一生がムラの中で共有されていたことをうかがい知ることができます。平成14年夏から15年3月にかけて実施された芹沢の大久保C遺跡と大久保D遺跡の調査では、縄文時代中期(約4500年〜4000年前)のムラが発見されました。市道工事に伴う発掘調査のため、ムラの一部しか調査されませんでした。しかし、尾根から突き出た舌状(ぜつじょう)台地に存在する両遺跡では、竪穴住居跡が共に10数軒発見され、それらの囲まれるように、柱穴など多数の小穴(こあな)群や貯蔵庫、墓と思われる土坑(どこう)群が確認されました。またこのムラの竪穴住居には、入り口部に甕(かめ)が埋設されているものが多く、完形または半完形の土器も多く掘り出されました。加曽利(かそり)E式という土器様式を持ち、特に神奈川県一帯で活動していた縄文人たちの共通した行為であり、胎盤などを埋葬した甕を踏み歩くことで、子どもの成長などを願う「埋甕(うめがめ)」の風習があったと考えられています。このような遺構から、縄文人たちの家族への深い想いを感じることができますが、この精神がムラ人のきずなを深め、縄文社会の発展を支えたものと考えられます。縄文時代中期の貝塚は本市では発見されていませんが、後期(3500年前)になると、堤貝塚をはじめ四貝塚が知られ、貝塚を残した大規模なムラが、台地(丘陵)一帯に一定の距離を置いて存在しています。貝塚は相模湾岸では非常に少ないため、その中に包含された自然遺物はとても重要な資料となります。
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