ちがさき丸ごと博物館

住まいとムラの移り変わり

名称 住まいとムラの移り変わり 別名
所在地
概要 茅ヶ崎の人間の歴史は、旧石器時代後期に属する約30000年前に始まり、12000年ほど前に縄文文化、そして約2000年前(弥生時代中期)に、稲作を代表する弥生文化へと引き継がれてきました。文字がなかったので、これらの時代の歴史は、石器の種類や形、土器の形や文様などから時代・時期を知ることができる編年表が作られています。また、住居跡などの遺構群のタイプやムラの形などの変化から、人々の生活ぶりや社会構成が考えられてきました。旧石器時代の竪穴(たてあな)住居跡は、ほとんど発見されておらず、まだその土地への深いかかわりは感じられません。石器を作成した時に出たと思われる石くずや、調理用と考えられる焼けた石の集まりが、キャンプのような生活を繰り返していた旧石器人の痕(こん)跡です。これらは赤土層の中に時折発見されます。縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に区分され、約10000年にもわたります。全国的にも、草創期の住居はほとんど発見されていませんが、早期(8000年前)については、不整の長方形をした竪穴住居跡が発見された例が知られています。しかし住居内に炉を持つものは極めて少なく、この時代は、まだ屋内で火をたくことに大きな不安があったことがうかがわれます。前期(約6000年前)になると、長方形でしっかりした掘り込みを持つ竪穴住居の床に、炉が造られました。西方貝塚(下寺尾)には、この時期の典型的な住居跡が見つかっています。そしてこのころから、住居を周囲に配置し、その中央広場に共有施設を持つムラ(環状集落)が、一定の地域に見られるようになります。中期(4000年前)には、円形の住居が主体となり、4〜6本の主柱(しゅちゅう)(棟(むね)持(も)ち柱)で上屋(うえや)を支える形になりました。芹沢の大久保C遺跡と大久保D遺跡では、ほとんどの住居の出入り口にかめが埋設されていました(埋甕(うめがめ))。後期(3500年前)には主柱はなくなり、壁際に柱を巡らす形態になりました。柱穴の並びはホタテ貝上になるなど、特異な形が一般的になりました。晩期の住居は、茅ヶ崎ではまだ見つかっていません。
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