ちがさき丸ごと博物館

芹沢村

名称 芹沢村 別名
所在地 芹沢
概要 芹沢村は、16世紀末に徳川家によって新しく組織され、明治22年(1889)に小出村が出来たとき消滅しました。芹沢村は高座丘陵の北向き斜面に広がり、市の最北部に位置していました。そのさらに北側は、小出川を境にして、今は藤沢市になっている打戻(うちもどり)村でした。高座丘陵は小出川小学校の辺りが最も高く、そこから流れ下る水が丘陵を削って、谷戸と呼ばれる谷をつくっています。芹沢村内の水流は北向きに流れているので、谷戸は小学校の近くを谷戸頭(やとがしら)とし、北向きに開いています。村人は谷戸の中の、背後に丘陵、目の前に水田を見る位置に屋敷を構えていました。伊豆を含む関東を支配する徳川家康は、天正19年(1591)、村内の土地の調査を行いました。おそらくこの際に調べたと思われる文禄3年(1594)銘の「芹沢郷屋敷坪帳」と言う記録があり、65人の村人がそれぞれ何坪の屋敷を構えているかが書かれています。最も広い屋敷は720坪(2376?)の面積ですが、この屋敷の所有者を示す欄には「地頭やしき」とあるのみで、個人名がなく当時の地頭(領主)がだれだったのかは分かりません。また、古い絵図が残っています。年号はありませんが、17世紀後半に書かれたと思われ、谷戸の中に存在する家々が当時の領主ごとに記されています。このころ、領主は旗本の戸田、小沢の両家で、戸田家分に属する村人は36軒、小沢家分は19軒です。約300年前家数は55軒でした。今は小出小学校の辺りに公共施設や人家が集まり、茅ヶ崎方面へ向かう出入り口のようになっていますが、当時はここに1軒もなく、集落は谷戸の中と小出川に面する辺りに点在しています。絵図には、村鎮守の腰掛神社の前を北に下る道と、それが小出川を渡る橋が描かれ、橋のわきに「お江戸道、十二里、新道なり」とあります。江戸まで12里あるという意味で、当時はこの橋が江戸を向いた玄関口だったことを示しています。村人には用田村(藤沢市)に出て中原街道を江戸に向かいました。天保12年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』には「戸数百」とあります。絵図の頃と比べて、家数は倍増しました。また腰掛神社については「腰掛明神社。大庭の神が腰を掛けし旧跡といい伝う。(略)小石一つを置いて神体とする」とあります。「小石」とありますが、実際は持ち上げられないほどの大きさがあり、今も拝殿前のシイの大木の根元に祭ってあります。また「別当寺は修験(しゅげん)の宝沢(ほうたく)寺」とあります。江戸時代は神仏習合で、腰掛神社を修験道の宝沢寺が管理運営をしていました。宝沢寺は神社に隣り合っていましたが、明治政府の神仏分離によって廃され、今は跡地に木立が茂っています。明治地代のようすは、明治19年(1886)にまとめられた『皇国地誌』の下調べでうかがえます。同書では、腰掛石に腰掛けたのは蝦夷の征伐に向う日本武尊、神社の祭神も日本武尊となっています。村の人口は「農業五百六十人、農商兼業二十人、医業一人、農工兼業七人」とありますが、家数については記されていません。ちなみに平成12年(2000)9月1日の所帯数は710人、人口は2512人です。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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