ちがさき丸ごと博物館

高田村

名称 高田村 別名
所在地 高田1-5丁目
概要 江戸時代の高田村は、四辺形のこぢんまりとした村でした。小字は大久保、六斗蒔(ろくとまき)、鶴田の3つしかありません。天保12年(1841)に発刊された『新編相模国風土記稿』(以後『風土記稿』)に、戸数21とあります。それが明治12年(1879)の記録では神社2,寺1を含めて41戸となります。領主は明治時代を迎えるまで大岡家と長田家でした。大岡家は、堤村や下大曲村(寒川町)の領主の大岡家と同族です。高田村には慶応2年(1866)の絵図が残っています。絵図によると、村の北端は大山道で区切られ、赤羽根村と接しています。また、大山道に沿って十数軒の民家と山王社と鎮守の熊野社が描かれています。村の中央の広い部分は田です。南端の字鶴田にも民家が見えます。かつて鶴田には3軒の民家があって、口遊び歌に「大山千軒、須賀千軒、南湖は三百六十軒、高田の鶴田はただ三軒」と歌われました。明治37〜8年(1904〜5)の日露戦争のころ、事情があって3軒とも引っ越してから、「鶴田森」と呼ばれる屋敷跡に、3軒で祭っていた稲荷社のみが残っていました。しかし、それも移され、昭和30年代後半からは開発が進んで一変しました。民家があった位置は、小出県道(県道遠藤・茅ヶ崎線)沿いの高田郵便局の東南、約100mの辺りです。鎮守について『皇国地誌(明治12年版)には「万治元年(1658)に領主の大岡隼人が紀伊国の熊野神社本宮(和歌山県)を勧請した」とあります。また山王社には、『皇国地誌(明治10年版)』に「創立は享保5年(1720)、領主の大岡氏が近江国(現在の滋賀県)の日吉大社から勧請した」とあります。熊野社は今は熊野神社と名を変え、山王社は明治42年(1909)に現在の場所に移りました。熊野神社の拝殿前に2基の手洗石があります。寛延4年(1751)の年号銘のある向かって右のものには、大岡吉次郎忠□と領主の名前があります。また、これを奉納した村人として「森武右衛門當雪 同縫左衛門郭博」の名と「惣産子」という文字が彫ってあります。森家は、『風土記稿』に「旧家武右衛門」として記されています。小田原北条氏の家臣を務め、北条氏が発行した古文書や由緒ある文具、武具を所有するとあります。また、「惣産子」は珍しい書き方ですが「総氏子」の意味です。鎮守のことを産土(うぶすな)ということから「産」の文字を使ったのでしょうか。また、手洗石にはこれをつくった石工の名が「信州(現在の長野県)高遠城下藤澤郷石工守屋喜八」と彫ってあります。藤沢という地名は今も高遠町に残っています。江戸時代から石工がたくさんいたところで、徳川家康の命によって江戸城の工事にもかかわったといわれています。高遠藩では苦しい財政事情から出稼ぎを奨励しました。石工たちの足跡は長野県内はもちろん、群馬、山梨、東京、静岡、岐阜、神奈川、愛知などに及んでいます。その一人が本市にも作品を残しているわけです。向かって左の手洗石は山王社のもので、「天明元年(1781)八月十五日」、「大岡君家門長久」とあり、領主の無事を祈って村人が奉納したことが分かります。両方の手洗石の上部はくぼみでボコボコになっています。古い石段にも見られるものですが、子どもが遊びで開けたものが、別の理由があるものなのか分かりません。小さい石造物からも村の歴史がいろいろ考えられ、興味の尽きないものです。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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