ちがさき丸ごと博物館

茅ヶ崎村(十間坂・南湖)

名称 茅ヶ崎村(十間坂・南湖) 別名
所在地 十間坂1-3丁目・南湖1-7丁目
概要 十間坂の地名が歴史に現れるのは、室町時代初期のことです。元弘3年(1333)に北条氏とともに鎌倉幕府が滅んだあと、鎌倉には足利方の足利直義(尊氏の弟)が入り、関東を治めます。しかしその2年後、北条一族の北条時行が直義を追い、再び鎌倉を占拠します。建武2年(1335)7月25日のことです。これを知った足利尊氏は急ぎ鎌倉を目指し、各地で北条方を破りながら東海道を下って来ます。8月18日に相模川で合戦をし、その夜は『十間酒屋上野宿』と古い記録にあります。このことは「夜は十間坂で野営した」と解釈されたことがありますが、最近の研究では、「十間酒屋」は、鎌倉市腰越あたりの地名とされており厳密には本市とは無関係のようです。しかし、当地域が戦乱の巷にあったことは確かなことのようです。茅ヶ崎市青少年会館の南側を西に向かい、第六天神社の脇に出る細道は鎌倉古道といわれ、その南側を古道に沿うように通る細道は東海道の古い道筋と言われています。この道に面する神明宮の社殿の前に、椎(しい)の木が1本あります。これは太平洋戦争に出征した人が植えたものだそうです。耳を押し当てたところ、その人がこの木に託した思いが聞こえるかのようでした。かつて神社は松の大木に囲まれていたといいます。
 また、第六天神社の鳥居の脇には2個の力石があります。私たちにはとても持てるとは思えませんが、昔、ここに住む力持ちが「持てるものなら持って行け」と言われて、柳島やなんどき橋から持ってきたという話が伝えられています。十間坂より西側の国道1号ぞいを茶屋町といいます。江戸時代の記録には「南湖立場」とも書かれています。ここは、幕府公認の宿場ではありませんが、藤沢宿と平塚宿の間にあって、旅人や参勤交代の大名たちがひとときの休みを取ったところです。本陣を松屋、脇本陣を江戸屋がつとめました。昔はいろいろな商売の店が並んでいて、近くの村々から買い物に行くところでもありました。茶屋町に近い法林山金剛院に、明治6年に茅ヶ崎村最初の小学校「琢章(たくしょう)学舎」が開校し、同22年に茅ヶ崎村役場が開かれたのも、当時この辺りが中心だったからです。明治31年に東海道本線の茅ヶ崎駅ができてからは、にぎわいは次第に駅近くに移りました。南湖は、茶屋町、鳥井戸、上町、中町、下町の5つの町内に分かれており、ひと口に「かみ、なか、しも、ちゃとり」といいます。町内は、人々が生活するまとまりで、多くはそれぞれに氏神を祭ります。南湖でも、茶屋町は茶屋町大神宮、鳥井戸は御霊(ごりょう)神社、上町は金刀比羅神社、中町は八雲神社、下町は住吉神社です。おそらく、江戸時代には5町内で八雲神社1社を祭っていたものが、それぞれの町内が大きくなり、別々に氏神を持つようになったものと思われます。明治初期の神仏分離以前は、八雲神社は牛頭天皇を祭る天王社でした。茶屋町の江戸屋の屋敷神を持ってきて祭り始めたといわれています。浜降祭の日、早朝の合同浜降りを済ませた後、ご神霊を白木の輿に移し、1社だけで南湖を回って再び浜降りをします。途中で江戸屋によるのはお礼のためといわれています。寒川神社と浜之郷の鶴嶺神社が合同して浜降祭を行うようになったのは明治時代からで、その後次第に参加する神社が増えて現在の浜降祭になりました。八雲神社の独自の浜降りは、神社がおのおのに浜降りを行っていた古い様子をうかがわせるものです。「大山千軒、須賀千軒、南湖は360軒、高田の鶴田はただ3軒」という口遊び歌があります。南湖は昔も漁師町特有の混雑した屋並みをしていたのでしょう。江戸時代には南湖、南子、南郷、南江とも書かれていました。国道1号が千ノ川をまたぐ辺りから、東海道の左側にそびえる富士山を見ることができます。南湖の左富士、鳥井戸の左富士といい、静岡県の吉原とともに昔から名所とされてきました。ともに、江戸時代の浮世絵師、歌川(安藤)広重が作品としています。空気の澄んだ日なら、大きな記念碑の向こうに富士山を見ることができます。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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