ちがさき丸ごと博物館

茅ヶ崎村(本村)

名称 茅ヶ崎村(本村) 別名
所在地 茅ヶ崎・茅ヶ崎1-3丁目・本村1-5丁目・元町・若松町・幸町・新栄町・共恵1-2丁目・中海岸1-4丁目・東海岸北1-5丁目・東海岸南1-6丁目・
概要 江戸時代の茅ヶ崎村の範囲は、今の住居表示の茅ヶ崎、茅ヶ崎1〜3丁目、本村1〜5丁目、元町、若松町、幸町、新栄町、十間坂1〜3丁目、共恵1〜2丁目、南湖1〜7丁目、中海岸1〜4丁目、東海岸北1〜5丁目、東海岸南1〜6丁目です。東西約3km、南北約2.4kmで、本市の面積およそ36平方kmの約20%になり、23ヶ所の村の中で、最も広い面積を占めていました。人々は、本村・十間坂・南湖(茶屋町・鳥井戸を含む)の3つの集落に固まって生活をしていました。茅ヶ崎の地名が文書に初めて現われるのは室町時代のことで、那智の滝で有名な熊野神社の文書に、相模国の信者として「ちかさき」の左近四郎と五郎二郎の名が見られます。今から530年ほど昔のことです。戦国時代は小田原北条氏が支配していましたが、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼしてから徳川氏の支配となり、家康は関東に新しい村の制度をつくりました。この時、ほかの22の村と共に茅ヶ崎村が生まれました。村を定めるにはその範囲を決めなければなりません。茅ヶ崎村の東隣は小和田村です。2つの村の境は、現在のTOTO(株)と東海カーボン(株)の間から真っすぐ海まで延びる道で、昔は郷境、昭和になってルドルフ・ラチエンさんが近くに住んでからはラチエン通りと呼ばれていました。今から3百数十年前、茅ヶ崎村と小和田村が漁のことで争い、漁場を分けるために、姥島(烏帽子岩)を見通して引かれた線を道として残し、村境にしたものです。家康は家臣に村を所領として与えました。茅ヶ崎村は旗本の興津氏と丸尾氏が得ましたが、興津氏はまもなく領地替えになり、岡部、馬場の2氏が加えられ、この4人が宝暦12年(1762)まで支配し、以後明治を迎えるまで幕府領でした。なお、丸尾氏の墓が本村5丁目の1画と小和田の上正寺にあります。幕府は主要な街道を整備しました。全国の情報をより早く江戸に集めるための情報網を整備したのです。東海道筋についても、距離を明確にし、宿場を設けて管理しました。茅ヶ崎村を横断する東海道には、江戸から14丁目を示す1里塚が築かれ、今も残っています。また、茅ヶ崎村の鎮守は本村にある八王子神社です。江戸時代後期の村々の記録の『新編相模国風土記稿』には、「鎮守、八王子神社。円蔵寺持ち」と記してあります。当時は神仏習合の時代で、円蔵寺が管理していました。明治時代になり、神仏は分離されたのですが、社殿の前にある釣り鐘が江戸時代の様子を今にとどめています。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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