ちがさき丸ごと博物館

堤村

名称 堤村 別名
所在地
概要 行谷、芹沢の両村と同じく堤村も高座丘陵の中に位置していました。村の南北と東の三方は丘陵です。中央には西に開いた谷戸が広がっていて、その最も低いところを駒寄川が流れています。昔から人々は谷戸の縁に屋敷を構えていましたが、最近は水田を埋めたところや台地の上にも人家が増えています。江戸時代の天保12年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』(以下『風土記稿』)には「江戸より十四里(約56?)、地頭は大岡氏」とあるほか、鎮守は諏訪社、寺院として正覚院(曹洞宗)、浄見寺(浄土宗)、妙伝寺(日蓮宗)などが列記されています。諏訪社は今は建彦神社といいます。明治43年(1910)、政府の指示によって、隣接する行谷村の金山権現社と下寺尾村の諏訪社をこの諏訪社に合祀したとき、新しい神社名を付けるに当たって、金山権現社の祭神の金山彦命(かなやまひこのみこと)、諏訪社の建御名方命(たけみなかたのみこと)から「建」と「彦」をとったと伝えられています。神社の境内に「西征陣亡軍人之碑」と書かれた記念碑が立っています。西征とは西南戦争のことです。明治10年(1877)、保守士族によって擁された西郷隆盛が、明治政府に抵抗して鹿児島で軍を起こし、やがて熊本鎮台を攻撃しました。これに対し政府は直ちに軍隊を派遣しました。この政府軍は、明治6年(1873)に制定された徴兵令によって編成されたものでした。建彦神社境内の碑は、このとき徴兵され、九州まで派遣された小宮松五郎が、明治10年3月20日に肥後国(熊本県)玉名郡で戦死したことを伝えています。この碑は戦死の3年後に堤村が建てたものです。市内の西南戦争の記念碑は、このほかに菱沼の八王子神社と萩園の三島神社の境内にもあります。前者は島崎瀧蔵の戦死を伝え、後者は戦後、凱旋する途中に25歳で病死した加藤勝五郎の事跡を伝えています。また、『風土記稿』に「地頭」とあるのは、堤村の領主のことです。江戸時代を通じて大岡家の領地でした。豊臣秀吉は天正18年(1590)に小田原の北条氏を滅ぼしたあと、徳川家康を伊豆を含む関東6ヶ国の領主に任命しました。8月に江戸城に入った家康は、徳川家が直接支配する村と家臣達に分け与える村とをつくりました。江戸時代の村はこのようにして生まれたのです。堤村は、家康が三河国(愛知県)にいたころからの家臣である大岡忠政に与えられました。天正19年(1591)5月3日のことでした。忠政は関東に移った当初、堤村に住まいを構えたようです。『風土記稿』に「大岡氏陣屋跡、浄見寺の東南にあり、忠政、当村を賜わりし後ここに土着し、後江戸に移住す」とあります。ただ、そのはっきりした場所と年代は分かりません。系図によると、忠政は慶長16年(1611)に菩提寺として窓月山浄見寺を村内に建て、元和元年(1615)父忠勝を三河国からここに改葬しました。このことは『風土記稿』ではなぜか忠政の子忠世の事跡となっています。山号と寺号は忠勝の法名「窓月浄見」に依っています。忠政は、寺を建てた翌年に本尊として阿弥陀如来も寄進しています。墓地には忠勝、忠政をはじめ一族の墓石が並んでいて市の史跡に指定されています。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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