ちがさき丸ごと博物館

東海道

名称 東海道 別名
所在地
概要 市内を通る国道1号は、昔の東海道に一致しています。徳川家康は、関ヶ原合戦の後の慶長6年(1601年)、江戸の日本橋から京都の三条大橋間に宿場を設定し、東海道53次が成立しました。江戸幕府は、慶長9年(1604年)から街道の整備に取り掛かり、並木の植樹と一里塚の構築を命じています。江戸時代の茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿の間にあり、間の宿といわれました。文化3年(1806年)に江戸幕府が作成した『東海道分間延絵図』を見ると、沿線に菱沼村、小和田村、茅ヶ崎村、浜之郷村、下町谷(屋)村、今宿村、中島村があり、牡丹餅立場、一里塚、南湖立場、姥ヶ嶋(姥島)、などが描かれています。そのころの東海道の道幅は、旧小和田村付近で約11m、南湖立場付近で約7m、馬入川付近が一番狭く約6mであったといいます。立場とは旅人が休息するための施設で、牡丹餅立場は、今の菱沼バス停の付近にあったといわれています。この辺りは海道の高みの頂上となっていて、茶屋から海まで見通すことができたということです。また、南湖立場は、市内の東海道筋では最もにぎわいました。そこには本陣(松屋)と脇本陣(江戸屋)があり、松屋は表間口20間(約36m)ほどの構えであったといいますが痕跡を留めていません。江戸屋の創業は元禄ごろと推定されています。享和元年(1801年)、幕臣大田南畝がこの江戸屋に立ち寄り、ひしこ(カタクチイワシ)のなますと松露(キノコの一種)の吸い物を食べ、その印象を漢詩にして賞賛しています。近くの海と松林では、このひしこと松露がたくさん採れたといわれています。市内には名残の松並木が残されていますが、一番多く見られるのは茅ヶ崎高校付近で、松林中学校入口信号から茅ヶ崎高校前歩道橋間に104本の松があります。また、藤沢境近くの国道南側には、松並木のなかで最も太い、目通り232?もある松があります。万延元年(1860年)の記録では、松並木の本数は茅ヶ崎村内だけで1176本とあります。平成12年の調べでは、市内全線で317本の松があり、そのうち目通り70?以上のものは154本、それ以外は細いものが多く、最近補植されたことを示しています。ちなみに江戸時代の幕府も並木の維持には腐心していたようで、たびたび細かい指示をした記録が残っています。
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