ちがさき丸ごと博物館

藤間資料館

名称 藤間資料館 別名
所在地 柳島2丁目
概要 浜見平のバス終点から、西北へ約500メートル(柳島バス停から西へ200メートル)柳島小学校の東の集落に、柳島村の名主で、回船問屋だった藤間家がある。広々とした屋敷が、往年の生活ぶりを偶(しの)ばせるに充分で、その屋敷内に「藤間資料館」がある。私設で常時公開ではないのが残念だが、ここには藤間家に伝わったものを中心に港に関する古文書や道具類などが保管されている。
藤間家は、この地の開拓者といわれ、代々とうまUり「あん名主をつとめ、同家十三代の藤間柳庵(とうまりょうあん)(享和-明治16《1801-1883》)は、昭和55年に「かながわの百人」の一人に選ばれた人である。
柳庵は、本名を善五郎といい、回船業で裕福だった十二代善左衛門の長男として生れた。なぜか、三歳のとき、母つるが藤間家を去り、以後祖母の手で育てられたという。九歳のころから書を習い、読書を好んだ父の影響をうけ、十一歳から学問をはじめ、主に江戸で学を身につけたという。俳句・短歌を詠み、文筆をよくし、世間から"文人名主〃といわれ楷行(かいぎょう)の書家秦星池(はたせいち)に学んだという書は、その見事な筆跡か残されている。名主としての公務を誠実につとめる外、家業の回船業では、観音丸・不動丸の四百石船を所有し、江戸はおろか、北は仙台・石巻、西は遠州灘・熊野灘から遠く瀬戸内
海までおよんで活躍し、藤間家の家運を発展させた。 柳庵が文人名主として、その名を高めたのは、その知性的好奇心と行動力を発揮して、資料や情報を入手、激動の明治維新前後の内憂外患の破乱の世相を庶民の目で記録した
『太平年表録』を残したことである。この記録は、嘉永6(1853)年2月2日の小田原大地震で初編がはじまり、明治5(1872)年までの七編で終っている。内容には、嘉永6年と翌年のペリー来航時において自ら浦賀に出かけての正確な観察、安政2(1855)年10月の安政大地震時、自ら見聞した江戸市中の克明な被害状況、等々が記され、史料的にも貴重なものと評価されている。また、27歳から死の直前81歳まで書き続けた『雨窓雑書』が九編まであり、これは、柳庵の学芸の集大成ともいうべきもので、人間柳庵を知ることができるものという。藤間家の玄関前の庭に「身代は預りものとこころえて富やすよりへらさぬがよし」と刻んだ
安政4(1857)年に建てた家訓碑があり子孫に対する心情の程がうかがえる。柳庵の墓は、藤間家にほど近い善福寺にある。 (根)

[ちがさき丸ごと博物館ガイドブック(文化財編)  ぶらり散歩 郷土再発見  (根) ふるさとの歴史散歩》より引用 (昭和58年6月28日発行 茅ヶ崎郷土会)  (根) ]
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