ちがさき丸ごと博物館

中島村

名称 中島村 別名
所在地 中島
概要 中島村は市の西の端にあって、南は柳島村、北は今宿村、東は下町屋村、西は相模川と大住郡の須賀村・馬入村(ともに現在の平塚市)に接していました。『新編相模国風土記稿』(以下風土記稿)には、「相模川に添いたれば、秋ごとに氾濫のわざわいに堪えず。崩入(ほうにゅう)せし田地も若干なりという」とあり、相模川の洪水に苦しめられていたことが分かります。明治時代の記録によると、生業として農業と相模川での川漁が行われていたようです。今は川漁はすたれましたが、農業は盛んで畑にはネギが青々と育っています。村内には11の小字があり、番屋という1つを除いて、他は上河原、中河原、丸島、下河原、向島、池ノ上、前河内(ごうち)、向(むこう)河内、大川淵、矢島で、このことからも村は相模川の氾濫源にあることがうかがえます。また、風土記稿に「東海道村内を通り、海道のかたわらに状部屋と号する所を置く。官辺および尾紀二侯をはじめ、書状往来のとき、相模川水溢(すいいつ、洪水のこと)に遇わば、ここに止め置きて村民などこれを守る。これ当村、馬入渡りの東岸にあるを以てなり」とあります。この意味は、村を通る東海道のかたわらに状部屋というのがある。これは、洪水で相模川が渡れないとき、徳川幕府や尾張、紀伊両藩などの公用文書を留めておくためのもので、村人が守っていた。村が馬入の渡し場の東岸にあるためだ、というものです。今から千年ほど昔の平安時代の半ばにつくられた『倭名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)』(以下倭名抄)という辞典があり、その中に、大住郡(相模川の西側)に中島という郷があると記載されています。この中島について、江戸時代に作られた風土記稿は、今回取り上げている中島のこととし、平安時代には相模川が中島の東側を流れていたが、その後流路が変わって、現在のようにその西側を流れるようになったためだと解釈しています。明治、大正時代の歴史学者の沼田頼輔もこの考え方を受けて、下町屋の一角に関東大震災のときに出現した杭を鎌倉時代の橋脚であると考証し、鎌倉時代はここを相模川が流れていたと説明しています。倭名抄にある中島郷が市内の中島であるかという問題と相模川の流路の変遷という問題は、郷土史上の大きな問題点で、今後も研究を要するものです。中島の村氏神は日枝神社です。その社前の一画を、陣屋跡または殿屋敷と呼びます。江戸時代の中島村の領主は山岡氏でした。天正19年(1591)5月の日付で、徳川家康が山岡庄右衛門景長に、この村を与えた古文書が県立歴史博物館に展示されていて、中島村80石4斗、浜之郷村119石6斗を与えると記されています。山岡家はその後明治維新を迎えるまで、両村を支配していました。陣屋跡、殿屋敷と呼ばれるこの地は、山岡氏の屋敷跡と伝えられていますが、旗本は江戸住まいだったので、住んでいたとしても一時のことと思われます。陣屋跡から東海道に向かう細道を殿道と呼びます。この道は縁起の良い道とされ、昔、結婚式を家々で行っていたところ、花嫁は遠回りをしても、この道を通って花婿が待つ婚家へ向かったそうです。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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