ちがさき丸ごと博物館

行谷村

名称 行谷村 別名
所在地 行谷
概要 行谷村は、高座丘陵という本市北部に広がる丘陵地にありました。高座丘陵は、標高50mほどの台地を長い時間を経て何本もの水の流れが谷をえぐり、形づくったものです。大きな流れが2本あって、1つは小出川、もう1つは駒寄川です。この2本の川と、そこに流れ込む支流がつくった谷を谷戸といいます。高座丘陵を高い空の上から眺めると、手のひらを広げたような形をしていると思われます。このような地形のなかに、今は茅ヶ崎市内となった行谷村、芹沢村、下寺尾村、堤村が江戸時代につくられました。行谷村は高座丘陵の西の端に位置し、西に向かって開いた谷戸のなかにありました。『新編相模国風土記稿』(以後『風土記稿』)には、天保12年(1841)に、「戸数二十三」とあります。村は東西に長く、大島、長久保、広町の3つの小字があります。大島には縄文時代後期の行谷貝塚があり、昭和24年に発掘調査が行われました。市内の発掘調査では早い時期のもので、シジミ、ハマグリ、カキや堀ノ内式、加曽利b式の土器などが出土したと記録されています。最近では、芹沢配水池の建設工事に先立ち、平成6年から8年にかけて、芹沢にまたがる臼久保遺跡の発掘調査が行われましたが、縄文時代草創期〜江戸時代の遺跡から、住居址や古墳などが調査されています。戦国時代には、後北条氏の家臣の行谷藤五郎という武士が村を支配していました。土地の名を名乗っていることから行谷を開発した人物と考えられますが、ほかに史料がなくどのような人物だったのかは分かっていません。江戸時代には、明治維新を迎えるまで旗本の馬場氏が治めていました。馬場氏と村の関係は、寛永10〜11年(1632〜3)に馬場房清に茅ヶ崎村の1部と行谷村が与えられたことに始まります。鎮守は金山神社です。『風土記稿』には、「金山権現社 身体は銅版に鑄出(いで)せし古像なり」とあります。明治43年(1910)に下寺尾村の鎮守の諏訪神社とともに、堤村鎮守の諏訪神社に合祀されました。しかし、その後訳あって再び分かられ、現在の姿になりました。神社の参道の入口に庚申塔が5基あります。そのなかの承応4年(1655)の塔には、2匹の猿を従えた4本腕の青面金剛が現れる初期のものとして有名です。同型のものが甘沼と十間坂にもあり、共に本市指定の重要文化財です。神社の参道に立つ鳥居には、「文政9年(1826)秋8月」の銘があります。市内にある鳥居のなかで、最も古い年号です。関東大震災で倒れたものを昭和4年に再建したとも彫ってあります。金山神社に隣接して、曹洞宗の宝蔵寺があります。明治6年(1873)、この寺を借用して「時習学舎」という小学校が開かれました。前年に明治政府が打ち出した新しい学校制度に基づくもので、行谷、芹沢、堤、下寺尾を学区とするものでした。しかし、学区の端であったため、明治9年(1876)に場所を堤の仲谷に移し、校名も堤学校と改めました。現在の小出小学校の前身です。

[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
イメージ