ちがさき丸ごと博物館

西久保村

名称 西久保村 別名
所在地 西久保
概要 西久保村は、北は大山道を挟んで香川村、大曲村(現在は寒川町)と、西は小出川を挟んで萩園村と、南は円蔵村、浜之郷村と接していました。江戸時代、人家は、妙蓮寺や鎮守の日吉神社そばを南下する旧道に沿って在りました。その辺りは標高が5m程あり、自然堤防の微高地を利用して集落をなしていました。集落のさらに西側は一段低くなっていて、小出川に沿い水田が広がっていました。一方集落の東側は畑で、そのさらに東側はまた水田でした。村の北部は大山道に沿って東西に細長く延びており、その東の端は現在鶴が台団地の一部になっています。『新編相模国風土記稿』に『元禄国図(1688〜1704)に円蔵村枝郷、古くは本社村と記す』とあり、正保(1644〜487)のころも本社村と書いたものがあると述べてあります。このことから、時期は不明ですが、円蔵村から分かれた村であることが分かります。はるか昔、円蔵の人たちが開墾して移り住み、やがて独立したものでしょう。今も新湘南バイパス茅ヶ崎中央インターチェンジの近くに、円蔵の飛び地があるのはこのような理由によるのもと思われます。「古くは本社村」とあることについては、もっと調べてみる必要がありそうです。西久保に近い矢畑の鎮守を本社宮といいます。また矢畑の一画には本社宮跡と伝えられる塚があり、浜之郷には本社という小字もあります。江戸時代より前には、今の矢畑、浜之郷、円蔵の辺りも含めて、本社と呼ばれていたのでしょうか。小田原北条氏が関東を治める天文年間(1532〜55)には、近藤右衛門尉経秀という人物が支配していました。法性山妙運寺は、経秀の母が日蓮宗に帰依して妙運尼と名乗り、西久保の自宅に寺を充てた(あるいは自宅の一画に堂舎を建てた)ことに始まり、寺の名は彼女の法名によると『風土記稿』や明治時代初期の『皇国地誌』に記してあります。また、懐島山宝生寺(真言宗)については、天保年間(1830〜44)の火災で焼失したために古いことが分からないと記されています。本尊は江戸時代中ごろの作といわれる大日如来像ですが、別棟に国の重要文化財指定を受けている阿弥陀三尊の立像が祭られています。これは鎌倉時代の金銅仏といわれ、市内の仏像では最古のものです。徳川氏が関東を治めてからは、それぞれ領主となった時期は異なりますが、石川、細井、細井(分家)、堀、丸山の5人の旗本と、幕府が分けて治めました。『皇国地誌』には、「地味(ちみ)は大変良く作物に適しているが、水が不足しやすく、小出川に近い田は水害にもあいやすい」とあります。田に引く用水を小出川から上げるために、大曲橋のそばに堰が設けてありました。この堰は今もあり、そばに立っている祈念碑には「竣工 昭和29年7月 工費 330万円」などとあります。つくり替えたときの碑と思われます。また西久保村は、有名な民話「かっぱどっくり」の発祥の地です。以前、民話の主人公の五郎兵衛さんの墓石と伝えられるものがあったのですが、道路の拡張工事などのために今は見当たりません。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
イメージ