ちがさき丸ごと博物館

萩園村

名称 萩園村 別名
所在地 萩園
概要 相模川に近い萩園は、川のはんらんのために土砂が堆積した土地です。東は小出川を境に西久保と浜之郷、西は相模川、平太夫新田、平塚市の須賀、南は今宿、北は寒川町の田端と大曲に接しています。昔、相模川は蛇行の激しい暴れ川で、洪水やはんらんを繰り返して川筋を変え、付近の村々はその水害の復旧や用水の利用に苦労を重ねました。萩園にも川普請(かわぶしん)や水争いの記録が残されています。村の名は、古くは「萩曽禰」と書き「はぎそね」と読んでいました。歴史に初めて見えるのは鎌倉時代半ばのことで、懐島郷(ふところじまごう)を領地とした二階堂氏の村境に関する文永8年(1271)の古文書に記されています。それが「萩園」となるのは江戸時代の元禄年間(1688〜1704)以降のことのようです。「曽禰(根)」という地名は、石混じりのやせた土地を意味します。それを豊かな暮らしを思わせる「園」に変えた先人の発想はすばらしいといえるでしょう。昔は萩がたくさん生えていたためでしょうが、萩原という小字も残っています。萩園から西久保へ通じる道が小出川を渡るところに萩園橋がかかっています。この橋は昔から東西を結ぶ大事な橋で、関東大震災で崩壊するまでは石橋でした。現在、その橋石の一部が鎮守の三島神社の境内に保存されています。石の長さは1間(約180?)幅は約1尺5寸(約54?)の大きなもので、これを何枚か組み合わせて橋がつくられていました。境内の鐘楼(しょうろう)の脇には「別当満福寺」と刻まれた石塔があります。銘は「この神社を管理するのは満福寺」という意味で、江戸時代の神仏混淆(こんこう)の様子を表わす資料の1つになっています。神社の東側を南北に通る道は八王子道といわれ、東海道と八王子を結んだ重要な道でした。この道沿いに本立山常顕寺(日蓮宗)と太鼓山満福寺(真言宗)があります。常顕寺の境内にはかつて養蚕の守り神として広く信仰された子之権現社(ねのごんげんしゃ)があります。また、本尊の日蓮像は室町時代、大永7年(1527)在銘の古い像で、氏の重要文化財に指定されています。満福寺は昔、現在地より北東にありました。そこには太鼓堂の地名が残っています。寺の境内に閻魔十王(えんまじゅうおう)をまつる十王堂があり、また元禄9年(1696)銘の箱に納められた地獄絵巻も什物(じゅうもつ)になっています。村の領主の変遷をたどってみると、戦国時代には小田原北条氏配下の篠窪氏と石川氏が村を2分しましたが、今村氏分は承応元年(1652)に天領(幕府が治める地)となり、明和4年に新たに本多氏が領主に加えられ、2氏が治める村として明治を迎えました。村内にはこれらの領主の史跡があります。常顕寺の裏手一画にはトノヤシキと呼ばれ、遠山氏が萩園村を給(きゅう)されたところに屋敷を構えていた所と、また十二天社は遠山氏が勧請したといわれています。さらに、字番場の墓地の一画に「松誓院殿(しょうせいいんでん)」を供養する石塔があります。「松誓院殿」は遠山氏4代目の新八郎安次の法名です。以前は道を隔てた南側のトノヤマにあったそうです。トノヤマも遠山氏に関係する地名ではないでしょうか。ちなみに遠山氏の墓は田端の往生寺にあります。一方本多氏の史跡は、田端近くの天王といわれる所にある八坂神社が屋敷の鬼門除けに祭られたものと伝えられています。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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