ちがさき丸ごと博物館

浜之郷村

名称 浜之郷村 別名
所在地 浜之郷
概要 国道1号沿いの鳥井戸橋のそばに、鶴嶺八幡社の大鳥居があります。この鳥居をくぐると神社の参道がまっすぐ北に延びて、その長さは約750m。神社の周りと参道の東側一帯を浜之郷村といいました。『皇国地誌』に、明治9年(1876)の村の家数50戸、村民の多くは農業で暮らし、稲、麦、粟、大根、ごぼう、菜、豆、桑などが良く採れるけれど、日照りや水害も受けたとあります。鶴嶺八幡社は村のほぼ中央部の字「本社」にあります。『新編相模国風土記稿』には、江戸時代の様子を、八幡社と佐塚明神社の社殿が並び立ち、浜之郷、下町屋、円蔵、西久保、矢畑、松尾、茅ヶ崎7ヶ村の鎮守だったと記してあります。また、拝殿前に置かれた享保20年(1735)の年号銘を持つ手洗(ちょうず)石に、これは南湖の船本中が寄進したと彫ってあります。当時、茅ヶ崎村(南湖はその一部)も氏子だったという風土記稿の内容を裏付けるものです。この手洗石はおそらく市内で最も古いものです。鶴嶺八幡社の縁起には2つの説があり、その1説が風土記稿に次のように紹介されています。「昔、浜之郷にあった勝福寺に道印法師という僧がいた。この僧は宇佐(大分県)のある寺の僧だが、神様のお告げに従って八幡大菩薩を持って来て、寺の鎮守として祭った。時に長承2年(1133)のことである。」と。勝福寺は、後に常光院と名前を変え、長く鶴嶺八幡社の別当寺として神社を運営しましたが、明治時代の神仏分離のときに取り壊され、現在はありません。神社の社殿前から南に延びる参道の取っ付きの右手に、江戸時代の初めごろ、この常光院の僧だった朝恵上人の墓石があります。朝恵上人は、荒れていた村と神社を復興させた人です。そのいきさつは慶安3年(1650)に書かれた古い記録に次のように書かれています。「天正18年(1590)、小田原の北条氏が滅んだ後、徳川の時代を迎えても八幡社は荒れていて、社殿は傾き、佐塚明神は雨にさらされていた。上人は残念に思い、新しく村の領主となった山岡氏の助力を仰ぎ、氏子と、塵を積んでは山をつくり、糸くずを集めては鋼をつくるような努力を重ねて社殿を再興した。その結果、慶安2年(1649)に、幕府から社領を認められるまでになった。このことを記念して、南大門(参道のこと)420間に松を植えた」。それから三百数十年間、参道と松並木は人々に親しまれ、神社の風光を際だたせてきました。今は、市指定史跡・天然記念物になっています。江戸時代、村の領主は旗本の大岡氏と山岡氏でした。天正19年(1591)、領主に取り立てられた山岡庄右衛門景長は文禄4年(1595)に死亡し、自分が再興した竜前院に葬られました。竜前院は鶴嶺八幡社の東隣りにあり、墓地には山岡氏の一族約30の墓石があります。また寺の梵鐘(ぼんしょう)も山岡氏に関係し、5代景忠が先に死亡した弟の供養のためにつくったものです。竜前院の東約150mのところに、かつて唱導庵がありました。もう一方の領主である山岡家の一人、直孝の母の発願で、安永4年(1775)に建てられたと記録されています。昭和20年の平塚市空襲の際に焼失し、戦後、寺として復興されたのですが、今は無く、住宅地に変わりました。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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