ちがさき丸ごと博物館

菱沼村

名称 菱沼村 別名
所在地 菱沼海岸・菱沼1-3丁目
概要 菱沼という地名は本市の中で比較的早く歴史に登場します。14世紀前半、鎌倉時代末期の文献に「相模国大庭御厨内菱沼郷」と出ています。平安時代の末期に本市を含むこの辺り一帯の土地を開発し、所有していた平景正(鎌倉権五郎)が、その地を伊勢神宮に寄進しました。これが大庭御厨で、先の史料は菱沼が大庭御厨内にあることを示しています。時は移って16世紀初頭、この地は小田原北条氏の支配するところとなりました。永正16年(1519)4月の日付のある、伊勢宗端(北条早雲)が子息の菊寿丸に与えた財産の譲り状の中に菱沼の名があります。菱沼は菊寿丸の家臣、新田という人物が支配していました。江戸時代になると、幕府は年貢を掛ける基準として村高を決めるとともに、村の境界を定めて範囲を決めました。このことを「村切り」といいます。ところが菱沼村は、『新編相模国風土記稿』(以後『風土記稿』)に「この地は小和田村と地形が入り交じっているため、周囲の隣接村との境界、地域などは小和田村と一緒にして記載する」とあるように、両村の境は複雑に入り組んでいました。幕末に描かれたと思われる村の絵図が残っていますがそこにも「小和田村・菱沼村入会絵図」とあり、2つの村を一括して描いてあります。また、『風土記稿』のなかに「東海道村が村の中ほどを貫く」とあります。現在の国道1号で、この沿線のバス停「菱沼」付近に、江戸時代には牡丹餅(ぼたもち)茶屋と呼ばれる立場(休憩所)がありました。そこは栗牡丹餅、湯豆腐、ゆば、あめなどが名物で、坂を登りつめた高台で眺めが良いところでした。この立場には7里継立役所がありました。この役所は紀伊藩(和歌山県)の徳川家が江戸と国元を結ぶために設けた飛脚継立の役所です。紀伊藩の役人が赴任していて小和田2丁目にある上正寺の過去帳には役人たちの名前が残っています。松林3丁目にある長福寺に役人たちの墓石が4基あり、「七里様の墓」と呼ばれています。この墓石は、継立役所跡近くにあったのですが、昭和10年代初頭に国道を広げる工事のため移されたといわれています。その中の安政4年(1857)銘の墓石に「俗名 正太郎 三歳」とあります。赴任先で子どもを亡くした両親が子どもの菩提を弔うために建てたものです。長福寺は菱沼村分にある真言宗の寺で、境内にはいろいろな石碑が並んでいます。その1つの「大山古道吟行の碑」は山門を入って左手にあります。昭和27年(1952)4月10日、飯田九一が同行者10人と共に大山道を吟行し、長福寺で昼食を取りました。このときの九一の句が、彼独特の書体で刻されています。 踏みて来し雲雀(ひばり)が起臥(きが)の野芳し 裏面には同行した人々の句があり、この碑は翌年の3月8日に序幕されました。 忘れ傘して梅の香が偲(しの)ばるる これは、同じく境内にある鴫立庵18世芳如の句碑です。先の九一の句碑の除幕式に出席した芳如が笠を忘れて帰ったので、庄司隆玄住職が届けたところ寺への礼状に添えてあった句を碑にしたものです。筆跡も優しく作者の人柄を忍ばせる句碑です。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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