ちがさき丸ごと博物館

平太夫新田

名称 平太夫新田 別名
所在地 平太夫新田
概要 市内には江戸時代の村が23ありますが、新田という言葉を付けているものは平太夫新田のみです。新田とは、不毛の原野や大きな河川の流域などを耕作できるよう開発した土地のことです。戦国時代には戦国大名が、江戸時代には幕府をはじめ藩や村や個人としての農民、町人などが許可を得て進めました。江戸時代を通じて行われ、全国の耕作地は倍増したといわれています。平太夫新田とは松平平太夫という者が開いたといわれています。『新編相模の国風土記稿』(天保12年・1841)には、松平平太夫は元和7年(1621)に亡くなって、墓は村内にあると書かれています。その供養塔は、今も鎮守、八幡神社の境内に祭られています。石を組んでつくられた台の上に、基礎も含めて1m50cmほどの笠付きの石塔です。正面にはお題目と「三諦院法源居士 松平平太夫」の文字、側面には「寶永二(1705)乙酉九月朔日」の年号銘が、村の草分けと思われる旧家、平井、日比、冨田姓の13人の名と共に彫ってあります。風土記稿の記事と合わせ考えると、この供養塔は平太夫の没後85年たって建てられたことが分かります。松平平太夫については、ほかに資料が見つかっていませんのでどのような人物だったのか分かりません。地元では、大阪夏の陣で滅んだ豊臣方の家臣と伝えています。平太夫新田ではこの開発先祖をしのんで、毎年12月1日に、塔の前で供養を続けています。また、この村の新田開発がいつ行われたのかも分かりません。風土記稿にある「正保国絵図」(1644〜7)に「平太夫村」と書かれているので、そのころすでに村として認められていたことだけが分かります。平太夫新田は小さな新田開発の村として出発しました。風土記稿には「民戸十」とあります。安政2年(1855)は村人70人と、明治19年(1886)は家数13,人数61と記録にあり、この間あまり変わっていません。村は相模川の自然堤防の上に開けており、北と東は萩園村に、南は須賀村(現在平塚市)に、西は相模川の川面を含んで対岸まであり、馬入村(平塚市)に接していました。茅ヶ崎市と平塚市は相模川が境と思っている人が多いようですが、実はそうではありません。これは長い年月の中で次第に相模川の流れが変わったためと思われます。風土記稿には「鎮守の八幡神社は、天明年中(1781〜8)の洪水の中で相模川にのみ込まれたため、現在の所に移った」と書かれています。また、安政6年(1859)の洪水では田畑宅地が流され、集落が現在の所に移ったという記録もあります。松平平太夫の供養塔も、元のものを移して明治35年(1902)に再建されたものです。新田とはいいながら、村の土地は水田に向かず、主な生業は長い間、畑作と川漁でした。相模川は災の元でしたが、生活の糧をもたらすものでもありました。
/国道1号の馬入橋際「新田入口」バス停から北へ堤防上を約1キロ行った東側に、平太夫新田の集落があります。一般には「新田」と呼ばれています。平太夫新田は、相模川の氾濫原にできた荒れ地でしたが、天正18年(1590)徳川家康が関東に入国した後、豊臣氏の家臣であった松下平太夫が、同志数人と開墾したと伝えられています。明治19年(1886)当時でも戸数わずか13戸で、この地域で最も新しく小さな村でした。集落の中心にある八幡神社の境内に、平太夫の供養碑(宝永2年:1705)があります。地域の人々は「平太夫さま」と呼んで、毎年11月30日に供養をして敬っています。
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