ちがさき丸ごと博物館

松尾村

名称 松尾村 別名
所在地 松尾
概要 松尾村は相模川の河口近くに開けた、東西約600m、南北約450mのこぢんまりとした村でした。天保12年(1841)に完成した『新編相模国風土記稿』(以下風土記稿)には、そのころの村の家数は13とあります。この数は平太夫新田の10に次いで少ない数です。村は、東は茅ヶ崎村南湖、南と西は柳島村、北は下町屋村に接していて、下町屋村の中に飛地がありました。現在は、一部が浜見平団地になっています。また、風土記稿には「円蔵郷と唱ふ」とあります。しかし、なぜ、そう唱えていたのかの説明はありません。円蔵村の人たちが開いた村なのか、あるいは江戸時代以前、円蔵、矢畑、浜之郷などが懐島郷と呼ばれていたころ、その中心は円蔵だったのですが、松尾も懐島郷の一部をなしていたのでしょうか。江戸時代になって、松尾村は徳川幕府の直轄地(天領)になりました。それが、宝暦12年(1762)に、旗本の岡部小左衛門忠政の領地となりました。岡部家は、多くの旗本が東海地方の出身だったなかで、珍しく関東出の家柄でした。隣村、茅ヶ崎村の領主の一人だったのですが、この年に茅ヶ崎村が天領に編入されたため、松尾村に領地替えさせられたものです。その後、明治維新を迎えるまで、松尾村は岡部家が支配しました。浜見平11の一画に共同墓地があり、その中の個人の墓地に、岡部家に連なる供養塔があります。この供養塔は地元では「殿様のお墓」と言われていて、「岡部六彌太忠澄(ろくやたただずみ)公ヨリ廿八代孫(にじゅうはちだいのそん)岡部小左衛門忠安公ニ至リ明治二年己(つちのと)七月三日壽(とし)七八而没(にてぼっす)」と彫ってあります。この意味は「岡部家初代の忠澄公から28代の子孫、岡部忠安公は、明治2年(1869)7月3日に78歳で没した」というものです。大正12年(1923)の関東大震災以前は村の東側を小出川が流れ、南湖との境をなしていました。風土記稿には、この池を赤池川と言うとあります。また松尾川とも呼ばれていました。小出川に沿う浜見平団地になった所は、かつて低湿地の水田で、水害と逆流してくる海水に苦しめられていました。地震のために小出川の河口付近の土地が隆起し、流路が変わって流れが細くなりましたが、昭和の半ばまでは川のほとりに生えていたヨシを使って、よしずをつくる仕事が行われていました。村を襲った大地震は、鎮守の神明神社の社殿も潰しました。神社の境内に建っている「大震災祈念碑」に、部族は大きな被害を被(こうむ)り、まさに世も終わりかと思われたが、神社の加護と村民の努力によって社殿を建て直すことができた。特に青年たちは参道の敷石を奉納して人々の崇敬(すうけい)を集めたので、記念として碑を建て、後の世に伝えるとあります。大正15年(1926)の4月8日のことでした。神社境内の地震の記念碑の隣りに、道祖神と庚申塔、厄神大神の塔があります。道祖神は享和4年(1804)に、庚申塔は天保8年(1837)に建てられたものです。また、厄神大神は、市内では下町屋の神明神社境内と、ここだけにある珍しいもので、明治22年の年号銘を持っています。市内では絶えたようですが、浜川神社(東京都品川区)の厄神に対する信仰に基づくものです。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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