ちがさき丸ごと博物館

室田村

名称 室田村 別名
所在地 室田1-3丁目
概要 幕末の頃につくられたと思われる室田村の絵図があります。この絵図には、方角、耕作地、水路、道路、民家、神社や寺が描かれ、当時の景観を知ることができます。絵図には、大山道と東海道を結ぶ道が赤い線で描かれています。この道は今も室田のメーン通りで、道筋に寺と民家と畑が描かれています。赤羽根村との境は大山道で、「大山参詣道」と記されています。また、八王子権現、永昌寺(曹洞宗)、妙行寺(日蓮宗)のほか、山王権現と天照大神は、今はありません。八王子権現は、鎮守の八王子神社のことです。『新編相模国風土記稿』(以後『風土記稿』)に「八王子社に山王、神明宮(天照大神のこと)を合祀す」とあり、この2社は絵図がつくられた後に鎮守が移されたことが分かります。そのほか、村の東側に浅間社、妙行寺の東隣に供養塚、永昌寺の北側に高札場が描かれています。浅間社は今も祭られていて、小さな石のほこらがあります。また、水路は青い線で2本描かれ、『皇国地誌(明治12年版)』にある千ノ川と中川渠です。中川渠について、同書に「菱沼村より字東の町に流れ来て、村の中ほどを西へ630m、幅1.2mで字大縄下から高田村へ流れ出る」とありますが、今はほとんど暗きょになっています。田は村の南側の低地に大きく広がっていて、その一部に「御料新田」があります。新田とは新しく開いた田のことで、『風土記稿』には「持添新田がある。享2年(1745)に開かれた。御料に属する」と書かれています。江戸時代の室田村の領主は宅間氏ですが、この新田は徳川幕府の直轄地だったことが分かります。新田の北側に「秣場(まぐさば)」とあります。これは、肥料にする草を刈るための土地で、江戸時代のころは欠くことのできないものでした。『皇国地誌』には、その面積が4反8畝18歩(約7820?)と出ています。寛文3年(1663)に茅ヶ崎村と小和田村が漁場のことで争いました。この争いに対して、翌年、幕府から「手白塚と祖母嶋(うばじま、姥島)の中央にある大石を見通す線を境目にする」という裁定が下されました。この線は、今もラチエン通り(通称)として残っています。地図の上でこの通りを延長すると妙行寺の本堂付近を通ります。先に紹介した絵図には、寺のすぐ東側に供養塚がありますが、手白塚はありません。また、市史3巻の塚一覧には「手城塚831」にあった塚をそれとしています。今の松林3丁目7の1角です。しかし、この位置と姥島を結ぶ線は、この通りとずれています。寛文年間には一体どこを手白塚としたのでしょうか。八王子神社の社殿は、入母屋造(いりもやづくり)で妻側に唐破風向拝(からはふごはい)がつき、軒の深い重厚な建物で、江戸末期の建築様式を残しています。この社殿は、一之宮(寒川町)で大きく商店を営んでいた日野屋の屋敷神のものだったのを、明治14年(1881)ころ移築したといわれています。社殿前の石段の下には大小2基の手洗石があり、大きい方に「龍」、「日夜心(にちやしん) 温水」、「正四位 山岡鉄太郎 書」と刻んであります。この石は明治19年(1886)に浦賀(横須賀市)の鈴木弥曽八という人が寄進したもので、鈴木氏は山岡家出入りの魚屋だった関係から書を手に入れ、書は親戚の当地の山岡家に伝わり、この手洗石に刻まれたといいます。
[文化資料館ブックレット2  ちがさき村ごと歴史散歩 (根) ]
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