ちがさき丸ごと博物館

明治の小学校(義務教育)

名称 明治の小学校(義務教育) 別名
所在地
概要 この時代に小学校に通学した人たちは、父母や兄姉が寺子屋で学んだ読み書き・そろばんなどの江戸時代のカリキュラムとは異なった初等教育を受けました。こうした公的な教育が始まっても、依然として寺子屋の形で、子どもたちの学習が行われていた例もありました。十八年(一八八五)生まれの萩園の野崎タ子さんは、農閑期のみに開かれていた隣接する田端(寒川町)の寺子屋に通い、読み書きを習ったそうです。当時は、義務教育が小学校尋常科四年の時代でしたが、全般的に女子の通学は少なかったようです。男子でも卒業する児童は少なく、子どもも一家の働き手として貴重な戦力でした。三十年代、本市域に在勤した石上憲定巡査の日記には、子どもを登校させるよう親を諭す記事がしばしば出てきます。石上氏は友人で茅ヶ崎村長の伊藤里之助氏らと、無理解な親たちへの説諭に苦慮していました。就学率が九十%台に達するのは日露戦争後の四十年代で、義務教育年限が尋常科六年に延長された後のことでした。[百科事典用テキストデーター   (根) ]
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